昨晩はタイトルのライブに行ってきた。場所は那覇の「1Mile」(music bar 1Mile:那覇市安里 1-4-18 2F:TEL 098-861-0337 )
今日はなぜか全身が耳のようになっていた。たまにそういう状態になる。周りには知人が結構いたのだが、この状態になると、彼らともほとんど話さなかった。
ライブは、なんと全曲、歌込みの即興である。エミさんは何語でもない歌詞で即興に歌を歌う。とてもいい声だ。そして誰にも似ていない、転びながらするすると歌に付き従うピアノを弾く。
まるでジョークのようだが、テンションがある。即興でものができて行く緊張感。そこに立ち会う者の面白さ。予定調和的によけいなclicheはどこにもない。
これは脳みその洗濯だ。こういう予定調和のどこにもない音楽をたまに聴くと、日々世間で鳴っていて、否応無しに耳に飛び込んでくるコピペ音楽(あるいは音楽のようなにせもの)で汚れた脳みそがきれいになる気がする。
後半に入るとコウサカワタルさんがサロードを弾いて参加した。この北インドの楽器は、もとはubuさん所有のものであったが、縁を得てコウサカさんのものになった。すごくいい楽器だ。コウサカさんにとてもよく合っている。彼のもとで、ますますいい音楽を作り出すことになるのだろう。
ubuさんは、一曲しか弾かなかったが、やはりピアノが上手だ。バックグラウンドがなせる技か、音の芯があって、くっきりとしている。この辺りではあまり見かけないキーボードだ。
彼の今回の演奏の中心の一つはテルミンだった。新型のEtherwaveを最近入手したとのことでそれを使っていたが、まだ音程を探している感じがした。聞けば前の機種よりピッチコントローラーのレンジが広いとのこと。今はそこのところと演奏者の身体の微調整中のようだった。音はすごくいい。
彼のもう一つの道具が、手製の6弦シンセベースだ。これが音域が広い、太い音のでる、強力な楽器だ。
それにホールズさんが一曲はいって、名護辺りで買ったという鳥笛を吹いた。「1本1000円、2本500円?」というのだが、きっちりと音楽になっていた。
頭がクリアになり、いい気分で帰れたライブだった。どうもありがとうございました。
タイトルのライブが2006年6月18日、桜坂劇場で行われた。
一言、「おばあ、恐れ入りました」である。
開場は1630から。その頃に行くとすでに半分くらいは入っている状態。入り口でチケットをもらい、さらに300円のドリンク代でビールをもらって入場した。入り口に、前がCDジャケットのイラスト、後ろが栄町の地図というTシャツがあって、結構売れているようだった。帰りでよかろう、と思っていたのだが、実はそれは35着限定だったそうで、帰りには完売していた。。
演奏はNGO沖縄ちんどん屋同好会の入場から始まった。開場の外からちんどんしながら入ってくる。わくわくと気分が盛り上がる。 「呼ばれてもいないのに勝手に来て応援します」とエールを送り、歌を歌う。喝采を浴びる。
続いて10行。ミユキさんは場慣れしていて、今回が初めてという司会の二人をいなす。あいかわらずのいい声。彼らの曲は琉球を意識しつつ、ポップな感じで、たとえばりんけんバンドなどとは違う感じ。
続いてちえみジョーンズバンド。彼女の声はとてもチャーミングで、ギター、ベース、ドラムだけで結構な厚みのある音を出していた。やっぱりいいねえ、と再認識。
このあたりからバンド順が不確かなのだが、次がやいまのおじいだったと思う。
おじいはCDと変わらずマイペースで、すごくいい感じだった。
次が「やちむん+ひじひじ」と、「エッグプランツ」。メンバーがかぶっているのでいっぺんに現われた。
比屋定篤子さんもいい声でした。
次がボトルネックの知念保さんのバンド。思ったよりもいい感じ。今回特別参加の大城さんのウクレレもいい感じ。までも彼女を黙って立たせておくのはちょっと気遣いがねえ。。と思った。
ところで会場は、騒がしい。曲の合間だろうが間だろうが行き交う人たちがたくさんいる。その人たちの9割は女性だった。まあ野外の演芸大会と似たようなノリだと思えば、それはそれでいい。
しかし一つ前の並びの騒がしい二人の女たちには閉口した。一人は布をターバン風に巻いたのと、もう一人はその隣のソバージュ頭の女性だが、このソバージュがうるさい。演奏中だろうがなんだろうが大きな声でぺちゃくちゃぺちゃくちゃと隣のターバンとしゃべっている。ウクレレや、ギター伴奏のみの静かな感じの曲の間でもおかまいなし。しまいにはしばらく不在にしたら席がふさがっているといって騒いでいる。満席立ち見状態なのに。社会性まったくのゼロという感じだった。
次がマルチーズロックだったか。
そして、おばあラッパーズ登場。
ちょっと昔のロックンロールに乗って彼女たちは入ってきた。英語の曲だが、唇は確かにその歌詞をトレースしている。ちゃんと英語の歌を歌っていらっしゃるのであった。
そしてカラオケ代わりに彼女たちの曲の録音に合わせて歌い、踊る。見事に堂に入ったパフォーマンスであった。「おそれいりました」の一言につきる。
最後に、CDの一部の音源を録音した、作家の宮里千里氏にリスペクトしてから、マルチーズロック+栄町オールスターズ(とは参集アーティストほぼ全員と三線のホールズさん)で「ダウンタウンダンス」の大合唱となった。観客も一緒にオールスタンドアップで、みんなで楽しく手拍子などで楽しんだ。もりと氏の観客を喜ばせるためのパフォーマンスが光る。(長めのメンバー紹介は。。ま結果オーライでしょう。)
やいまのおじいの楽しい演奏、おばあラッパーズのパワー、栄町の人たちの気持ちが伝わったライブだった。とても楽しかった。
那覇市は栄町に住む人たちやゆかりの人たち?、が作ったアルバム。
これがいいんだわ。とても。
曲を紹介します。
栄町市場おばぁラップ/栄町市場おばぁラッパーズ
いきなり飛び込んでくる笑い一発。まずこれにヤられる。タイトなバックに、最初はユルいラップがかぶさり、すぐにノってくる。おばぁーのラップがすごい。
ダウンタウンダンス/マルチーズロック with 栄町オールスターズ
ノスタルジックな雰囲気と声。仕掛けたユルさ。演劇のようです。
もし、ぼくが/エッグプランツ (奈須重樹+比屋定篤子)
ボーカルの比屋定篤子さんの声がとてもいい。
ラッキーユニバース/ちえみジョーンズ
のんびりした雰囲気に、いい声。
進貢船/10行 (ミユキ)
このCDの中では異色か。ミユキさんの声がいい。バックに負けない。
栄町音頭/NPO沖縄ちんどん屋同好会
チンドン屋。いい感じ。録音がちゃんと空間を捉えている。
よだきんぼ/やちむん with ひじひじ from かぼちゃ商会
なぜに宮崎?、という驚き。
やいまの遊び唄/やいまのおじぃ (宮良永幸)
これがこのアルバムでいちばんいい。ヘタかうまいかわからない人なのだが、なんといってもすごいのは、やっていることに全然迷いがない、ということだ。技術だなんだは全部超越している。実に素晴らしい
1,2,3/マルチーズロック
あっけらかんとマイペース。もりとさんのダミのあるいい声。
バンドネオン演奏/JULIA PERALTA (フーリア・ペラルタ)
このCDをiTunesでCDDBから検索するとこういうタイトルになる。ただしCDのライナーノーツには「EL POLLO RICARD」と書いてある。
自然でいい感じのバンドネオン。
ところで、ライナーノーツによれば、このCDには11曲目「ウッドストック」が収録されているはずだ。なぜか私のiTunesからはそれが見えない。。(普通のオーディオCDプレイヤーに入れるとちゃんと11曲目が聞けた。ITMSかCDDBのせい??)
このアルバムは、ミュージシャンと素人?の幸せな結婚だと思う。全体にすごくよく作られている。まっとうな音楽アルバムで、メジャーが売っても不思議じゃない。
栄町の人たちも、作った人たちもすごい、という率直な感じがする。
最初の曲、チンドン屋、やいまのおじいの曲は、作家でもあり、沖縄の古典音源などの収録もしている宮里千里さんが、栄町の現場で録音されたようだ。
聴く価値あり。
6月18日に桜坂劇場でライブも予定されている。
さらにその模様はnews23で放映予定とのこと。
自分がメモのために書いているテキストファイルがある。始まりを見ると1998年であり、サイズは1.6MB。聞くところによると新書一冊がだいたい200KBというから、8冊分くらいになるのか。
それを全文検索してみたところ、最近の丸山茂雄さんの講演会の記述を除いて「インディーズ」という単語が存在しなかった。そのこと自体がやや驚きであった。音楽好きの自分だが、それほどに「インディーズ」という言葉で象徴されるものがが嫌いだったのか、と。
早いものでもう2年前のことになるらしいが、私はKEN子さんの講演会のことを記事にした。読み返してみると、私がそこに書いていることはまったく間違っている。書かれていることは、ある種の偏狭さと誤解に基づくずれたフレームワークの産物で、人はここまで間違えるものかという自例になっている。
しかし間違っているからこそ、ある種の戒め、または自分の変化の記録としてそのまま残しておくことにする。
私は何を間違えていたのか。それは当時の私が「インディーズ」を定義した言葉「俺たちインディーズだからヘタでもいいよね絶叫系」に集約されている。早い話が「ブルーハーツのなり損ない」ということで、「ヘタクソで、うるさくて、美しくなくて、意味がない」、てめえらまずあたまと楽器をチューニングやり直してから出直してこい、と思っていたのだ。
まあそういう奴らは現実に多いわけだが、しかし本質的な部分で、インディーズとはそういうものではないのだ、ということに、私は今になって気づいたのだ。
思い直すきっかけは先のKEN子さんの講演で、それに続く丸山茂雄さんの講演と、彼の主宰するmF247を聞くようになったこと、それによって自分がライブを見たりすることでそういう世界をあらためて見直したことによる。
そういう意味では、あらためて丸山さん、KEN子さんにありがとう、といいたい。
ということで、節操なく宗旨替えをすることにする。
インディーズミュージックは、メジャーより面白い。というよりもというよりも、おそらくメジャーの多くが、下らない。
売れると何かが変わる?のか(丸山さんはそういうことも話していた)、オリジナリティのようなものは消え失せて行く。
小室哲也的な作家の気分による音楽のコピペ量産。メッセージは消え失せ、歌手は声を発する「道具」。また道具としての自覚しかない歌手だらけ。声の質までがコピペ的に同質だ。だれとだれとでもほとんど互換。歌詞も互換。
「ヒットチャート」などと称して8小節ばかりを全曲ならす番組を見ると、「速い曲」「遅い曲」「演歌」である以外にはどの曲も区別がつかない。そのこと自体が興味深いアートとして成立するくらいだ。
まあそれくらいにメジャーの邦楽近辺は、ひどい。
そんなものに比べれば、インディーズのほうがずっとよりストレートで、メッセージが伝わってくる。少なくとも「自分で」やりたいと思っている人たちの気持ち、「本気」は見えるので、それがオリジナリティにもなってくる。
演奏技術は、メジャーとはもちろんバックアップするシステムも含めて差はあるが、以前ほどはない。以前に丸山さんに「インディーズ(絶叫系)ってヘタですよねえ」と話したら、彼は「昔よりましだよ」と答えた。言われてみればその通りだ。少なくとも「聴ける」ものはたくさんある。もちろん「水準以下」もたくさんあるのだが…
まあしかしそういう志があり、伝わるものを持っているインディーズの音楽をローカルに楽しんで、それが地に着いたリアル伝搬や、ネットで広がる。特にネットの伝播は、ネットメディアの、まれにも健全にあるべき姿なのかもしれないと思う。ネットで知った、といって遠くから来る人たちをみるとそう思う。このようなネットを使った伝搬をもっと上手くやるべきで、mF247もその試みの一つだと思う。
くだらないジャンクミュージックをメジャーにだまされて聴く人も、ローカルを大事にする人も、実は同じ人である。それらは人の頭の中では同列。それらをランダムにごちゃ混ぜにして聞くと、何がいいか、どれがつまらないかは、自然に見えてくる。
リスナーのやるべきことは、そこでのフィルタリングであって、インディーズも元ちとせも小室哲也もひとまとめにiPodでシャッフルして、いいものはいい、駄目なものは駄目、と区別して行くことだ。「眼(つまり耳)」は常に重要である。
そしていいものは知る範囲でどんどん広めることだろう。そうしてもしもメジャーになったら、アーティストは問題を抱える。しかしそれはアーティストの問題であって、それは丸さんの指摘のようになるだろう。
リスナーは「あれはもうメジャーだからいい」といって次を探せばいいのだ。(これは丸山講演会の質疑の時に、halさんが話していたことだ。)
そしてわれわれはライブでアーティストと一対一で切り結ぶ。演奏中でもまわりできゃあきゃあとくっちゃべっているような声は耳に入らなくなる。彼(や彼女)と自分がつながる。
いい音楽とはそういうもので、そういうものを楽しみ、広めよう。
…という、私の今のお気に入りは「栄町オールスターズ」である。これはいいよ。すごく。
3枚目のフルアルバム。坂本龍一との「死んだ女の子」の入っている初回限定版は買い損ねた。なのでその曲は聴いていない。(あとになって、YouTubeに原爆ドーム前での二人の演奏の映像があるのを見た。この曲は、たぶん、聴くとつらくて毎日は聞いていられないだろう。(もちろん歌にかかわらず、そのつらい思いを毎日持ち続けている人もいる。)そしてこの曲はなぜか彼女しか歌えない気がする。なぜか?)
今回のアルバムでは、彼女の唱法にやや変化があるようで、「あー」→「あはー」、「いー」「いひー」といった音の混じり方が以前より多くなったようだ。その分声がストレートには伸びやかでないのだが、歌い方としてはより無理が少ない感じがする。ひょっとして以前から持っていたスタイルなのだろうか。
当初全編を聞いた時は曲想、アレンジが全体的に画一的な感じがした。散漫に均一化している?、といった感じなのか。もっとダイナミズムが欲しいと思った。
しかし、イヤホンで聴いたり、より集中的に聴くと音の作り方もよくできているようだ。そして歌詞は面白く、イマジナリーな感じで、きれいな日本語が使われている。
恋歌が半分、おそらくそうでないものが、半分。はっきりと口に出しては言わないが、しっかりとしたメッセージがある。
そして音楽は、みんなでどこかにいっちゃってる、という感じだ。アニメの「ワンピース」的な、海の向こう、地平線の向こうのような風景。
中でも「祈り」という曲のイメージが好きだ。ここでないどこか、おだやかで、安らかな場所。その歌詞にあるように、皆で木の下に集まって、「争いは終わり」、寝転がって彼女が唄う歌を聞いている世界。
その木はBanyan treeなのか?
「前兆」という、現在の世界の不安を表したような曲の向こうにその世界がある。
彼女の、女性的で母性的な声は、その世界にしっくりとおさまっている。
以前から名前は聞いていて、なぜか彼女の絵をギャラリーで見たことはあったのだが、音楽を聞く機会がなかった。それがmF247に登録された曲を聞いてからファンになり、結局のところ彼女のファーストアルバムを購入した。
とてもいい声だ。ゆったりぼーっとしていて、不思議な魅力がある。
「Lua e sol」というこのアルバムはこれがデビュー作なの?、という渋さというか、まったりというか、ゆったりというか、そういうアルバムだ。mF247で耳にしたのは「フジサン」という曲で、ゆったり、ゆっくりと、しかもすっとぼけていて、とてもいい感じだ。さらにsaigenjiのバックアップが抜群に効いている。それ以外の曲もみんな、いい。
彼女はどうも自分から前に出て行くタイプじゃないようで、いいプロデュース環境で実力を発揮しそうな感じがする。
セカンドは出ているのだが、どんな感じなのだろう。その中の「国頭サバクイ」はmF247に出ていて、これも振れる声が独特の魅力で、いい感じだ。
どうせいつか買っちゃうんだろうなあ。
大阪から来たフェイターンと沖縄の10行のライブがあった。2006年5月21日、那覇のパライソにて。
私はくねくねおどるボーカリストを3人知ることになった、一人は元ちとせ、そして今回フェイターン、と10行のミユキさんだ。みんなくねくねと踊りながら歌っている。
フェイターンはおおさかからきた、まず、あやしい。そしてたのしい。ピアニカも吹く。同じく関西のふちがみとふなとを思い出した。
そして彼女はテルミンを演奏する。
テルミンは、アンテナに手を近づけるとピッチとボリュームがコントロールきるシンセサイザーのようなものだ。この周りをくねくねと踊りつつ、奏でつつ、歌う。とにかくくねくねと楽しい。コントロールが上手である。
今回同じバンドでサポートしている、テルミンの師匠でもあるというキーボードのubuさんがとは、付き合いが長いからなのか、決め所でばっちり呼吸が合っている。ubuさんはまたつるつると職人技でバックアップする。とてもいい感じ。短時間リハーサルにしてはとてもよくできている演奏だった。
グンデル三線トリオのコウサカワタルさんがアタックの強い音の三線を奏でていて、見ると塗装がされていないようだった。あとになって、その楽器の由来について、FM那覇のpodcastで彼が話しているのを聞いた。ずっと前に入手されたもので、塗装をせずにおいておいたら音がミュートしないので気に入っている、とのこと。
つづいて10行(Jyugoo)。彼らの曲は先日リリースされた「めいどん栄町市場」にも入っている。
ミユキさんの声がとてもいい。太くおおらか。彼女は何曲か歌ったあとのバラードのところで、突然マイクをスタンドに戻し、捨てた。リバーブのない生の肉声。
突然部屋の雰囲気が変わり、観客の集中度が増した。その後から、また一段、演奏がよくなった。より惹きつける力が増したようだった。やや引きずり気味のリズム体だったのが、曲の雰囲気とマッチしてベストのパフォーマンスになった。(この「引きずり」は二つのバンドのどちらもで、どうも会場の反響の特性のせい?もあったようだ。(ミユキさんはそれで「マイクをやめた」と話していた。)
いずれにせよ、いいライブだった。ヒューマンボイスのすごさを久しぶりに確認した。
ところで栄町市場の人たち(おばあラッパーズ?)も来ていた。ローヤルゼリーの差し入れを持って。
去る2006年5月21日は、丸山茂雄さんの講演の第四回目(最終回)であった。今回はインディーズレーベルの立場と著作権などがテーマであった。対象者はインディーズのマネジメントやレーベルの立ち上げを考えいてる人たち。
かれは前回紹介した、ドナルド・S. パスマン著、升本喜郎訳「あなたがアーティストとして成功しようとするなら」という本を聴衆に配った。
2000年に出版された本(第二版)で、変化の早いネットの音楽ビジネス事情については今では少し古いが、それ以外の音楽ビジネス全体についてはよく書けている本で、アメリカでは大学の音楽ビジネスコースのテキストになっているとのこと。620ページもあり、読みたくはないだろうが、必要に参照できるように目を通しておくとよいとのことだった。アメリカでは第三版がでるらしい。
講演はその本を適宜参照しながら進んだ。話の全体としては;
現在は音楽ビジネス業界の変化の時期である。それはコンピュータ技術の進歩と、インターネットの影響がおおきい。「作」という観点では、すでに宅録が簡単にでき、CDが焼けるようになっており、LP時代のレコード会社メジャーの優位性は、すでにない。「試」という点ではアーティストサイトなどでのネット配信というかたちで、これまでの音楽流通経路を経由しないで自分の作品を世に問うことができる。また「得」という点ではネット販売という流通経路の変化で、利益が出せるようになっている。
そのような環境下で、上手く立ち回ればインディーズでビジネスできる時期になってきているので、自信を持って第一歩を踏み出しましょう、とのことであった。
その中でもチームにネット担当は必須で、それがないと現在のインディーズ向けのアドバンテージを活かせないので、生き残れないだろうとのこと。
またビジネスでは正しい人に相談しましょう、といわれ、沖縄にも何人かそういう「正しい人」がいるとのことであった。丸山氏自身は「自分はオンビジネスなので、必ずしも公平ではない」と言われたが、それ自体が彼自身の公平さを示していると思う。。(彼を知るミュージシャンは、彼のことを「日本の音楽ビジネス界の、最後の良心」と評していた。)
前回の範囲に入るが、と前提して、バンドが分裂した時の契約条項も「いちばんいい時」に作っておくとよい、とのことであった。彼はやはりバンドよりの人である。
ビジネスの話をしながらも、彼が一番重要に思っていることが、背景として時々講演に現われた。それは「でも一番大事なのは『いい音楽』、魂を揺さぶる音楽なのだ」ということだ。それがなければビジネスも何もない。あなたが、あるいはあなたの友達が、魂を揺さぶる音楽を作り出しているなら、演奏できるなら、それを広めればうまくいくよ、ということだ。大事なことは「いい音楽」であること。
関連して、かれはライブの重要性を説いた。
音楽そのものは、人類の歴史の始まりから録音技術が成立するまではライブだった。それが音楽の本質だ。昔の人の方がよほどライブをよく知っていたのだろう、と。
そして東京では芝居、歌舞伎、能狂言など、いままたライブが注目されはじめている。もう一度ライブの時代がくる。
どこの小屋のドアを開けてもロックやら三線やらの音楽が聞こえる、コザがそういう形で再生するとよいですね、と。
質疑ではモンゴル800とオレンジレンジの、歴史の中でのプロモーション方式の差(両極端である)などなかなかに面白い話が聞けた。
本講演シリーズはこれで最後である。
以前にイナンナの講演会で話を聞いたKEN子さんと、今回の丸山さんの講演、それにmF247の活動をみていて、わたしは「インディーズ」と呼ばれるものへの考え方がだいぶ変わった。偏見が取れた、ということかもしれない。
そしてまた、ライブが重要、ということについても思い出した。
よい体験となりました。どうもありがとうございました>丸山さん(と、KEN子さん)。
今日はmF247の丸山茂雄氏の講演会パート2であった。テーマは「音楽ビジネスの今とこれから」といったもの。
まず、前回の話を視点を変えて軽くレビューした。「茶の間」でのエンターテイメントメディアの消長の流れをラジオ、テレビ、ステレオ、ウォークマン、CD、ゲーム機、ネットについて考えた。時代の変遷につれて上がり下がりはあるが、なくなっってしまったメディアはない。ネットでもおそらくそうだろう。特に配信の時代の始まりである今もCDを買い続ける人たちはいて、そのような人はコアなマニアだったりして、音楽体験の始まりからしてネットである、という人たちがメインストリームになるまでのあと10年?、くらいはかかるのだろう、とのことであった。
現在、プロダクションから営業とプロモーションがメイン化したメジャーなレコード会社は厳しくなっている。逆にインディーズはやりやすくなった。アーティストから発生する利益のうちレコード会社が関与できるのはCDの売り上げだけであり、そのレコード会社のプロモーション活動が宣伝効果をもつライブ、グッズ販売、アーティストの作曲印税、CFなどのギャラ、写真集?などの利益にはかかわることができない。その中で配信ビジネスでさらに利益が減るのでは?と彼らは考えている。
録音の時だけやってきて、あとはいろいろなアーティストをくるくる相手する(いわば「浮気」状態)、「父親」役のレコード会社にたいして、「マネジメント」は「母親」役である。家にいていつもつきあうように、アーティストとつきあう。
人間とレコードは一緒で、物販と違って商品である音楽の中には人がいる。ここで「興行界の顔役」というちくま文庫の本について触れながら、人は成功してあるレベルを突き抜けると、全部自分でやっているような気分になる、という。自分が世界の中心、ということか。

そしてマネジメントと衝突する。それはほとんど不可避的である。これは人間の性(さが)なのであって、マネジメントには「そういうものよ」と捉えられるような度量が必要である。
インディーズマネジメントの100%自分取りの小さいパイと、メジャー50%の大きいパイのどちらを取るか。
いずれにせよ、売れれば衝突。
そんな中で、何でインディーズやるの?、ということについて。
結局は、音楽が好きである。いいのもの見つけ、「これいいだろ?!」と他人に広く聴かせたい。あるいは一生懸命なアーティストを応援したい。こういう気持ちがなければばかばかしいビジネスである。
しかも売れればもめる。
しかし、もめてもどうしても、作品として鳴っている音楽そのものは、いい。そのいいものを広める充実感が重要なのだ、と。
結局のところ、これが彼のコアであり、活動の本質なのだろうと思う。
最後にmF247の活動についてすこし触れられた。コンセプトは「まず聴いてもらおう、聴かせよう」ということ。誰でもまずFMなんかで聞いてみてから「いい」とか「わるい」とか決めるだろ?、と。
それもなしに誰でもすぐ商売? 他人はそれでいいと言うかも知れないが、俺はそうはいかないと思っている。みんながいいと思う(あるいは自分がいいと思うもの)を売ろうぜ、と。ここに、長年音楽ビジネスの中にいて様々なものを聴いて来た彼の、音楽へのこだわりを感じた。
mF247のビジネスのスタイルは、いわば「知財の公開」であり、ある意味ラディカルなことである。このためにJASRACときちんと詰めている。そこは「丸山さん」という人の熱意や、彼への信頼で成り立っているのだと思う。
著作権が前面に出過ぎて「才能の若年寄」になるのはよくないぜ、と。まずのびのびやろうぜ。その場としてmF247があるよ、という話だった。
この人はやっぱり音楽好きのオヤジなのだ、と思った。彼が作り手の側でかかわった「音楽が最もよかった時代」を、私はその受け手として過ごした。そういう私には、今の音楽は、バックグラウンドの技術の進化とは裏腹に、とても低レベルのものになっているように感じられる。99%くらいはよけいな雑音にしか聞こえない。
が、作り手として関わった丸山氏はには、そこのところに新しいものを作る若者へのこだわりがあり、なおかつ音へのこだわりがある。「そりゃーいい音楽はいい、って単にそういうことなんだよ」という気持ち。
あーわかりましたよ。そういうことなんですね。そうなりゃもう応援するしかないだろう。年寄り仲間としては応援してやろうじゃん、ということになった。
こうしてわたしはmF247のリスナーになることにした。
「mF247」の丸山茂雄氏の講演会があるというので、長男と一緒に聴きに行った。
沖縄市地域雇用創出推進協議会が、2007年7月にグランドオープンする「ミュージックタウン・音市場」を核施設として沖縄市が推進する、「音楽観光」を支える人材の育成、職業訓練及び起業家育成を目的として行っている活動の一環だそうだ。
氏の講演は4回シリーズの予定で、「音楽のこれまで」「音楽の今とこれから」「ミュージシャンの立場と著作権など」「インディーズレーベルの立場と著作権など」といったテーマとなるらしく、今回はその第一回であった。
氏はまずメディアと音楽表現の時代変遷を語った。戦前から終戦あたりまでは「NHKラジオの時代」であって、藤山一郎を始めとするクラシックタイプ、直立不動の格調のある歌手の時代だった。その後民放の時代になり、三波春夫や村田英夫など、より世俗的な音楽の時代になった。終戦直後からは、東京、沖縄、三沢などはVOA、FENなどによる、米国音楽の影響が強く出た(沖縄の特徴でもある)。白黒テレビの時代になり、US音楽のカバー歌手として布施明や伊東ゆかりなどがでてきた。
その後カラーテレビの時代となり、ここに至って「ビジュアル系」と言うべきか、それまでと違って歌がうまくなくてもカメラ写りがよければいい、という、10代のタレント歌手の時代になったとのこと。
またレコード会社の持つ要素として(制作、LPプレス、配送、営業、プロモーション)を挙げ、その優位性の時代変遷についても話された。それらの優位点のうち、基本的な制作はミュージシャン自身のデジタル宅録に代わり、LPプレスはCDに変わって必要なくなり、配送は宅急便がやるようになり、結局のところ、現在では営業と、作品のソフィスティケート化以外はあまり優位性がなくなって来たことを指摘された。その中で「インディーズ」が生まれて来た、と。
音楽界の「生き字引」というか、CBSソニーの立ち上げから日本のポピュラー音楽と共にあった人であるので、guruのごとくに言葉に説得力がある。
しかも「老成した仙人」というわけではなく、現在もアクティブに活動している「ワルい音楽オヤジ」(「ちょい…」がつくかどうかは…わからない…)という雰囲気がなんとも言えない人である。
残りの3回にも期待したい。
「住友生命サウンドロゴ問題」というのが友人のblogに上がっているので、ここにリンクしておく:
http://blogs.yahoo.co.jp/ubie55/5977191.html#8336991
※写真のフライヤーには「プチ☆カフェBar」とgrooveの両方の案内がある。念のために付言。
マイミクのryusonさんに教えられて行って来た。浦添市のgrooveにて2100から。
2130頃より開演。ヴォーカルの小柄な女性とベーシストが出てくる。この二人だけのバンドがふちがみとふなと。彼女はピアニカを手に持って歌いだす。
いい声だ。かすれそうでかすれない、繊細でしっかりとした声。表現も豊か。常に表現と声量を意識しながらマイクとの距離を変えつつ歌う。ヒューマンボイスの美しさを実感する。
このライブには不思議な親密さがあった。リバーブも(ほとんど?)かけていない、人間の美しい声とベースだけ。夾雑物の少ないintimateな雰囲気に包まれ、しかし意識はとぎすまされていく。他のオーディエンスの存在も感じられなくなり、ヴォーカリストの唄う歌と直接一対一の関係になれるような感じ。
聴いていて、ある瞬間、世界が変わった。ここではない別の世界に行った感じがした。grooveの紹介のページにある「聴くものをどこか遠いうたの世界へと誘ってくれる」を実感した。ライブの醍醐味と思う。
ところで、ステージのヴォーカリストの方の姿を見ているうちに、なにか知っているような気がしてきた。思い返してみると、春先に花見をした鴨川べりで「ベースとヴォーカルだけのバンドの人」を知人から紹介されていた。聞けばまさしくその時の方であった。縁とはこんなものかと驚いた。
ますます活躍なさいますよう。
昼と夜の2セッションがあり、夜の部に出かけた。席数の8割くらいの入りか。先に30分くらい屋良文雄バンドが演奏し、その後日野皓正グループの演奏になった。
まずはバックが上手である。先日、mf247の社長さんと話していて、彼が言っていたのだが、確かに日本のバンドの演奏技術は全体的に向上していると思う。ドラムが特によい。井上功一という人だ。ピアノがちょっと元気が少なめか?、とも思ったが、やや左という座っている位置のせいでそう聞こえるのかもしれない。石井彰さんという、結構なキャリアの人だ。(最初は若手に日野さんが稽古をつけているのかと思った。美しくきれいだが、毒が少ない、という感じか。)
Hub's Spring, Big Foot, ARC after dark, Sweet Love of Mineと続き、以後は日野がすこしおしゃべりを交えながらWhy Knot、Summertimeなどを演奏していった。
Sweet Love of Mineが超ゆったりで始まり、テンポがくるくるかわっていつの間にか全員パーカッションになって、またゆっくりに戻ってきたりと、ダイナミズムのある美しい演奏だった。昔はなんとなくキザなおじさんだった日野も、いい感じの鯔背なおっさんになっていた。しかし演奏は「円熟」という言葉がぴったりのフレージング、音質。
で、このおっさんはヤルのである。客席に声をかけて「カズマル君」をステージに呼び出す。赤いVodafoneのスウェットと黒の短パンの彼は、客席後方から降りてきてサイドの階段を駆け上がり、スピーカーの縁をすり抜けるようにしてステージに上がってきた。カズマル君は中学2年生のドラムの天才だそうである。いったんステージサイドに引っ込むと、故・日野元彦の曲を演奏し始めた皓正バンドの、ベースのブリッジのところで井上功一と入れ替わってドラムを叩き始めた!
すぐに日野さんのソロになる。持っているスティックが、テンポに対してやや重そうな感じのスタートだったが、日野さんの音にリードされてどんどんピッチが上がっていく。そのままピアノソロ、ベースのソロ、ドラムソロと回り切ったところで、日野さんの合図で曲が止まった。カズマル君がでてきて、日野がつないだ手を天に挙げる。万雷の拍手、指笛、カズマル君はにっこり。彼と日野さんは今日が初対面だそうだ。
曲が再開し、もういちど、一発締めるような井上功一のドラムソロのあとテーマに戻って本当に曲が終わった。最後はスローテンポの曲で、メンバーを紹介して、終わった。アンコールはなかったが、演奏はとてもよかったのに、なぜか不要な感じがした。ステージがきれいにストーリーとしてまとまっていて、おねだりすることなく「このまま終わった方がきれいだな」という感じがした。
充実した音の、楽しいライブだった。
私のところにも来た。
大元のリソースはここにあるらしい。
わたしのところにはチルドレンクーデターのまひまひさんから回ってきた。
この企画をある種のチェーンレターだと考える向きもあるようだ。その可能性を知りつつも私が自分もコミットしている理由は;
ということで書いてみることにする:
●Total volume of music files on my computer
(コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)
243曲。1.07GB。先週すべてのデータを消したばっかりなので、まだ全部入っていない。でも基本的に自分がCDで持ってるやつなので、いつでも再ロードできるし、HDの空きが少ないので、あまり気にしないでときどき消します。
243Tunes, 1.07GB. Recently I erased all music data and have not refilled completely. Anyway I sometimes erase my music data since my HD is not big enough, and I can load them from my CD whenever I need it.
●Song playing right now (今聞いている曲)
Tuck Andress「Manha De Carnaval」

●The last CD I bought (最後に買った CD)
元ちとせ「ノマド・ソウル」発売当時すぐ買ったので、だいぶ前ですね。
HAJIME Chitose/Noamd Soul: bought it soon after it was released, Sep 2003.

●Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me
(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)
意外に限定的に聴かない。その時あるものでフィットするのを聴いているか、そういうものがなければなにも聴かない。むしろある時期には特定のアルバムを理解するために、そのアルバムだけを集中的に気分に関わらず聴いていることが多い。(例えば寝ても起きても72時間くらいなりつづけている、など。)
たまたま今は、しばらく存在を忘れていたLee Ritenourの「Festival」とJoni Mitchellの「Shadows and Light」を集中的に聴いています。
I don't listen to any particular tune, and will do with some handy one around there, otherwise I listen to nothing. Rather, I sometimes listen in concentration to the particular CD album for some long time, such as for 72 hours continuously, in order to understand it.
Recently I have concentrated on Lee Ritenour's "Festival" and Joni Mitchell's "Shadows and light Live" which I have forgotten for these ten years. They are nice!
そうすると思い入れのある方になるんだけど;
So the selection goes to ones that mean a lot to me and they are..;
・Simon & Garfunkel (Paul Simon)/Kathy's Song
耳コピーで初めてコピーしたのは「April Come She Will」だけれど、こちらは「自分が思っていないことは(もう)書かない」というポールの真摯な気持ちがストレートに伝わってくる歌。

・Simon & Garfunkel /The Dangling Conversation
「現代人の疎外」が伝わってくる。知的で美しい曲想とともに学生時代から好きだった。

・Simon & Garfunkel /The 59th Street Bridge Song
かっこいいからね。そして楽しいし、音楽的にも洗練されている。

現代的な曲から採ると;
・The Manhattan Transfer/ Notes from Underground
「Brazil」というアルバムの最後に入っている。南アフリカのアパルトヘイト時代に投獄されたり地下に潜った人々と、その希望を歌った曲だ。潜伏の現状の表現から希望の表現に切り替わるところが、涙が出るくらい美しい。美しいブルーグリーンの海が目に浮かぶ。

・元ちとせ/「翡翠」
「ノマド・ソウル」の5曲目に入っている。彼女の声は、なんだろう、スペクトルが特別なのだろうか、直接脳に沁み込むように響く。とても気持ちがいい。そういう音の伝わり方自体が驚異である。ゆらゆらとした曲想とともに、留保なく聴けてしまう。

●Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5名)
沖縄限定で、音楽にこだわっているかもしれない(人でかつ、あるSNS経由でリーチャブルな)人を;
kunkunさん( in SNS)
rioさん
しおぴょんさん( in SNS)
ミユキさん
みかりん
ということで、バトンを回しますが「これを「チェーンメールだ」と思う方には、無理にレスポンスは求めません。よろしくお願いします。
先日iPod Shuffleを買ったので、ライブラリをあさっていて、しばらくぶりに見つけて聴いてみたのだが、この「ヘンさ」は格別で、一流である。聴くことをお薦めする。
何がどうヘンで面白いかは、簡単には説明しづらい。「悪いことは言わないから、とにかく聞いてみなさい」と言うほかはない。
とはいえ、少し昔のジャズに詳しい人なら、以下のような表現でわかってもらえるだろうか:
まあそんなものです。多重録音なのか?、トラックのずれのようなものも(それともノリの差か?)感じないわけではないが、そこは聴く方の頭の中でシンクロさせるとして、まあとにかくトンでもない音楽です。聴いていると自然に身体がゆれて、顔が笑ってきます。
学生の時に、行きつけのジャズ喫茶で、アルテックA5でこの音楽を初めて聞いた時は、もうぶっ飛んでしまった。
あのメンバーがなんでこんなものを作る気になったのか、それとも誰かに作らされたのか知らないけれど、とても面白い。
1976年の作品。なにが30年前だよふざけてんじゃねえ!、という感じ。
私が小学生のころ、ビートルズは「レット・イット・ビー」を遺して解散していた。中学の時にギターを弾き始め、コピーしつつ覚えたのはサイモン&ガーファンクルで、ティーン時代のアイドルは彼らになった。「アイ・アム・ア・ロック」に自分を重ね、「Kathy's Song」に不思議な恋の雰囲気と、海の向こうの遠い世界を見ていた。
もう少し時代が下っていたら、自分のアイドルは間違いなくスティングだったと思う。
そのスティングがイタリアで買った邸に旧知のスーパープレイヤーを集め、短期間のリハーサルの後にプライベートコンサートを行うまでのドキュメンタリーとそのライブの様子がこのDVDに記録されている。
素晴らしい映像作品になっている。
メンバーはアメリカ、イギリス、アルジェリア、ブラジル、中近東などから集まって来る。総勢10人程度。ライブは邸の中庭で100程度の規模にこぢんまりと行われる。
レコーディングやビデオを撮影しながら短期間で過去の曲を再アレンジ・再構築し、煮詰めていく。そのプロセスの映像が興味深い。アイデアが次々と生まれ、仕上がり、メンバーの意気も上がっていく。ライブ前日、関係者やマスコミを集めた、最終のドレスリハーサルでは「デザート・ローズ」にアラブ人の歌手やベリーダンスまでを加え、準備は万全となった。全メンバーが明日に向けて楽しげに、わくわくと力に満ちていた。
そしてライブ当日、ランチタイムに彼らの目に飛び込んできたのはニューヨークのWTCに突っ込んでいく航空機の映像だった。その日は2001年9月11日だったのだ。
テラスのテーブルにプレイヤー全員が集められた。すでに世界は変わってしまった。自らも少なからずダメージを受けた。この状態でライブができるのか? 全員が意見をいい、議論になった。
スティング自身は当初ライブを止めるつもりだったようだ。しかしメンバーから意見が上がった。ここでメッセージを残さなければ我々はさらに空虚になる。むしろそのことが敗北なのだ、と。
ライブはスティングの追悼の言葉で始まり、まず「フラジャイル」が演奏された。いつもの彼の自信に満ちた、鋭い目線はない。伏し目がちで、声にもいつものエネルギーが漲っていない。「thousand years…」「Galaxy…」と歌詞を唄いながら、彼はなにを感じていたのか。ステージ構成は変更され、状況にそぐわないと判断された曲はカットされた。「音楽を歌う楽しさと、悲しみの間を行ったり来たりしている感じで、変な気分だ」といいながらステージは続く。
それでも演奏が進むにつれて、彼の演奏に力が戻って来る。10曲ほどを歌ってライブは終了となった。「デザート・ローズ」はついに歌われることがなかった。
ドレスリハーサルでのメンバーの自信に満ちた様子、その翌日、激しく打ちのめされ、苦渋の表情ながらも演奏を始めるメンバーたち。そして音楽は音楽として完成されていく。破滅的な精神状態から、音楽の力が演奏者と芸術を救い出し、再生させる、希有なドキュメンタリー作品になっている。
Wed Mar 24 08:26:16 JST 2004
music:Munia the tale:Richard Bona
自分のメモに記しているのは↑の日付。コンテンツにしていなかったのだ。
2003年末だったと思うが、三味線の吉田兄弟がニューヨークの様々なミュージシャンとライブバトルをやるのを記録したドキュメンタリーがあった。その中でバトルの相手の一人として出ていたのがリチャード・ボナだった。最近自分で音楽リサーチをしていないのがばればれだが、それまでこのベーシストのことを知らなかった。
マックと楽器が並んだ自己のスタジオで吉田兄弟とセッション、さらに自分の歌を披露した。6弦のベースをレキントギターのようにつま弾きながら美しいメロディを唄ってみせた。美しい。早速買って聴いてみた。
彼の音楽は、美しく、楽しい。本人の人柄か、音楽への愛か、それが率直に演奏に表われている。たぶん聴く人全てを幸せにすることのできる、数少ない音楽の一つだと思う。
BGM的にぼうっと聞いてもいいが、それよりは静かな部屋でも、飛行機の中のヘッドフォンでも、集中できるところで彼の音楽を聴くとよい。彼が善き人であり、音楽に祝福されていることがわかる。素晴らしい。
買って聴く価値がある。絶対に。
ちなみにあちこちで「ザ・テイル」が「the tail」と解釈されているが、「the tale」である。「しっぽ」ではなく「物語」。
昨年11月、NHKテレビの番組「輝く女」にドリカムの吉田美和さんが出ていた。
全編を見て驚いたのは、彼女が、音楽以外の手段で自己表現をほとんどしない、ということだった。自分の音楽だけをやる。昔々のアマチュアフォークシンガーのような姿。
ミュージシャンとしてスタジオやステージに立つ時とそれ以外では、まったく雰囲気が違う。オフステージではインタビューにも曖昧にしか答えない、言葉がない、ドキュメンタリーカメラともほとんど目線をあわせない。インタビューで話す言葉も、インタラクティブというよりは自分から短い言葉を発信して終り。今時の自己表出の下手な十代くらいに、表現がなかった。
そしてすべては音楽に向けられている。彼女の表現は歌声を通してのみ、伝えられる。ドリカムの大きなテーマは愛や恋で、それ以外ではない、ときっぱりと話す。どう取り繕いもしない。音楽以外はなにもない、と、すっぱりとその自らの姿をカメラの前にプレゼンテーションする彼女。
すっきりとした、姿だった。
昨日行われたライブについて:
「音楽の歓び・錦織健とともに パート3」
これは以前に書いた沖縄平和音楽祭のシリーズの一つ、ということになる。本ライブは今年で10回目になり、第6回まではモーツァルトの「レクイエム」ニ短調(K626)が毎年様々な演奏家により演奏されていたそうだ。世紀が変わった2001年に第1回目の錦織健によるライブに変更され、以後2003年を除いて今回までの3回を錦織が演っている。私は2002年のライブも聴いていて、そちらは別に記事にしている。
さて今回の演奏はどうだったか。
全般的なことからいうと、まずはピアノ伴奏が少し饒舌に過ぎ、あと一歩、錦織に寄り添っていない感じがした。今回の伴奏者は多田聡子さんだったが、自身がソロプレイヤーなどとして多彩な活動をしているからだろうか、錦織と一対一のプレイヤーの関係に感じられ、伴奏者としてボーカリストをサポートする、という感じがやや薄かったように思う。
それでも錦織は美しく歌う。フォルテはもちろんだが、小さな音になった時のエコーやビブラートのような音までも自分で創りだす(ステージはだいぶデッドな感じの場所)。
前半で全体的なマッチングがよかったのは「蘇州夜曲」になったあたりだったと思う。
それから「さとうきび畑」が歌われた。前の記事にも書いたが、この歌には、やはり掴まれてしまう。夏の暑く明るい日差しの中で起こった戦の話。周りの聴衆の多くにとってそれはフィクションではない、実体験である。そのことが観客を捉えているのがわかる。
突然に私は感じた。隣の人と強く手を結びたい、と。そしてさらに感じた、たとえそうしても、どんなに力を入れて手を握り合っても、戦場と砲弾の前では人間は無力だ、ということを。悲惨や凄惨という言葉を通り越して、そこには無力な人間しかいないのだ、ということを。Fragileという言葉が思い浮かんだ。
後半は洋楽であった。錦織は健闘したが、やはりピアノとのマッチングは今ひとつであった感じがした。途中でピアノのソロが2曲。ミスタッチがいくつか。
後半のイタリアのカンツォーネとなると、ピアノがどうなっていようが声で押し切ってしまえるような彼の力が発揮された。
全体に、錦織も今ひとつの調子であったように思われた。それともピアノとのマッチングのせいなのか? 彼が数歩ピアノから離れると、ぐっと調子が上がるように思われた。
アンコールは一曲。それが終わると観客も席を立ち始めた。前回は何曲かアンコールのリクエストがあり、錦織もそれに応えたように記憶している。敢えてアンコールのリクエストも一曲にとどめたのは、沖縄の聴衆の普段は表に現われないセンスなのか? ふとそういうことについて書くことのある宮里千里さんのことを思い出した。
来年、錦織は来るのだろうか。よくわからない。
「故郷・美ら・思い(シマ・キヨら・ウムい)」元ちとせ:高校3年生・17歳の元ちとせの島唄CD。
曲は;
朝花節:祝い事の始めの歌
長朝花節:祝い事の歌
俊良主節:悲恋の歌
くるだんど節:父母の歌
かんつめ節:悲恋の歌
シュンカネ節:幼妻の歌?
らんかん橋節:悲恋の歌?
雨黒み節:悲恋の歌
塩道長浜節:悲恋の歌
嘉徳なべ加那節:神女の歌?
国直より姉節:恋の歌?
長雲節:恋の歌(?祝い/別れ)
むちゃ加那節:薄幸の乙女の歌
ちょうきく女節:悲恋の歌
糸繰り節:悲恋の歌?
ヨイスラ節:無事を祈る歌
行きゅんにゃ加那節:悲恋の歌
行きょうれ節:別れ歌
くばぬ葉節:恋歌?
曲がりょ高頂節:恋歌?
正月着物:恋歌?
豊年節
曲想も構成も三線のフレージングも似たような感じのものが多い。奄美の島唄の特徴なのかもしれない。その中での彼女の特徴ある声と歌い方が聞かれる。彼女が歌うポップスと同じようにすんなりと身体に入る。留保なく身体に沁み入ってくる歌声。「百年に一度」と言われる声の本質がそこにあるのかもしれない。
曲の方は、悲恋の歌が多いらしい。(歌詞と解説から曲名の後ろにつけてみたが、必ずしも当たっているとは言えない、「悲恋」には単純に「別れ」も含まれているかも。)中には祝いの席では歌えないという曲もいくつか入っている。これも奄美の歌の特徴のようでもある。
私には言葉の意味が分からないので、逆に知らない世界の音楽として楽しめている。
ジャケットが三代変わっているらしく、第二代は元ちとせのライブステージの写真らしいが、現在でているのは当たり障りのない奄美の海岸の風景になっている。版権の問題でも出たか?
出しているのは奄美にあるセントラル楽器店。webサイトはこちら。
教育テレビのETVスペシャルで、「新しい音が生まれた 〜BEGINとギター職人たち〜」が放送されていた。
この番組の骨格は、以前に別編集で放送されている。(たしか年末年始に見た覚えがある。)前回の放送バージョンは、ヤイリギターの制作ポリシーに重点を置き、その中でBEGINと共同開発した新しい楽器「一五一会」とその廉価版の新楽器の開発過程をルポルタージュしたものだった。番組の最後は廉価版の初期サンプルロット100本のできが不十分で、ヤイリ側がダメ出しをしつつ、届いたサンプルをごりごりとヤスリで削ったりしているところで終わった。
今回は、BEGINによるそもそもの楽器開発の提案やその周辺の彼らの考え方などにフォーカスを置くと共に、前回放送の話のその後のストーリーも付加された長尺のバージョンになっている。
女性キャスターが初めて手にする一五一会で、フレット番号だけついた楽譜を見て、4本の弦を指一本で押さえて鳴らすと和音になり、BEGINが自然に「涙そうそう」のメロディーをつける。初めて出した音が音楽になっていく事実に、キャスターの目が輝いている。「ひけるさ〜、はははは」という感じでBEGINが笑っている。
三線で子供からじいちゃんばあちゃんまでが音楽を日常にしている沖縄を見て、そういう音楽とのかかわりが日本全国に広がったらいい、そういうきっかけになる楽器を作りたいというBEGINのアイデアを、職人集団ヤイリギターが形にした。さらにその普及のため、一本10万円の一五一会をコストダウンし、かつクォリティを維持するために国内生産するための苦労が描かれる。前回の放送はそのコストダウン量産型の商品化の壁の部分で終わっていたが、その後の制作チームの努力でようやく品質を維持した楽器としてデビューすることができることになったことまでが今回は放送されていた。
前回は楽器製作の現場のトンでもない技能職人さんたちのありかたと楽器製作へのこだわり、その制作ツールに感心したが、それが最終的に結果となったものまでをみて、とても嬉しく感じた。沖縄では、どこに行っても人が集まっていればたいてい誰かが三線を弾いている。その楽しげなコミュニティのありかたがとてもうらやましく思えていた。そのシーンが、形を変えて日本のあちこちで見られるのかもしれないと思うと、なにやらわくわくする。48000円なら手が出そうだな。ひとつうちでも。。というか、ヤイリのあのこだわりを見たら、一つくらい買ってやろうじゃないか、と思えてくる。
先日とある会でken子さんの話を聞くことができた。ken子さんのことは「インディーズでClap Handsの人」と言えば、わかる人にはわかるのだろうか。(私は初対面)
私はいわゆる「インディーズ」と呼ばれている音楽が、全般的に嫌いだ。理由は二つで、一つは、本来はメジャーシステムと関係ない「独立系(independent)」であったはずのものが、いつのまにか「インディーズ」という名前の「ブランド」に成り下がってしまっていること、もう一つはその「インディーズブランド」自体が「俺ら『インディーズ』だから下手でもいいよね絶叫騒音系」というレベルを超えていない、要するに私にとってはたかだか「素人のど自慢カネ一つ」程度で、ほとんど「音楽」の範疇に入っていない。そんなものが世間を闊歩しているのにうんざりしているから。
そういう中でken子さんの話を聞くことができて、インディーズの中にもこういう人はいて、ちゃんとやることはやっているのだ、とわかった。そのことがとても嬉しかった。今は彼女からいただいた「Clap Hands 2」を聴いているところです。音楽との新しい出会いをどうもありがとう>ken子さん。
と、いいつつ、以下は「Clap Hands 2」へのコメント。歌詞カードは読んでいない。耳から聞こえるものが頼り:
ガールフレンド:ドラム引きずってる。ブルーハーツとサンプラザ中野を足して割ったような声。そこから抜けているか? それがどうした、な歌詞。私小説・日記以前。誰でも考えて、歌にもしないこと。でも切ない気持ちは何度も聴いているとわかるような気もしてくる。
品味期限:中国語?以外が何か新しいか? ブルーハーツと何が違うんですか? これもドラム引きずり?
月:音の構成?がスティングみたいにクリーンに「抜けた」空気感になればいいのに。くどすぎ。一音一音が説得力を持ちきれない弱さもあるので、今の8割くらいに小節数(など)にまとめるといいのに。
キラキラ死んでやがる:これとモンパチはどこがちがうんだろう。資金力などによる音作りの厚さ? 詞は? こっちもドラム引きずり。
Eres Mi Especial:管の切れがいまいち。さらっとし過ぎか? こういうものにはパンチが必要で、声の粘り、バックのインストの音の粒立ちなどににメリハリがあればそうなる。実際は全開でも「全力の8割」くらいの「余裕」でやってるような雰囲気が感じられるとさらによい。でも全体的に○。
灯台の下で:リズムのぶれ。いきなり南こうせつ? 詞に今ひとつのエスプリを。せっかく琉歌的雰囲気で始めているのだから(通り一遍でなく、ちゃんと文学的な。おもろさうしでも読んで。りんけん的じゃなくて)。三線がちょっと下手ね。
Boys Be 強くなれ!!:なんでりんけんなんですか?、と思ったらわざとかも。詞はなぜ日常を超えられないか? 日常に非日常がないと詩にならない。声は忌野清志郎風。どうせやるなら清志郎になれ。と思っていたらけっこういけてる。
凧上げ:空気感足りない。歌が下手。ドラムもちっとタメたら? 平凡を平凡に歌ってしまう薄さ軽さ。平凡を一瞬で非日常にひっくり返すような何か(詞の工夫?)が欲しい。バンド全体に下手か。こちらもスティング的に抜けているといいのに。最後に外すなよ〜
Hyper Kidz:ドラム引きずってて下手。声が後ろにいて何を言っているかわからない。これもブルーハーツを超えない。
おとぎ話:テクニックはそれなり。音作りもそれなり。声に色気あり。いい声です。ドラムはわざとヘタウマしている?、かちょっと下手かもだが、曲の構成がうまくカバーしている。そういう意味でもよく作られた曲。
人の口に戸は立てられぬ:これ系は音楽と思ってないのでコメントしない。ダンサブルなリズムがあるだけ。バンドの演奏力はよくできていると思う。つうかラップって楽なのか? プレイヤ−が股間をさすってないことを祈る(あれみっともない)。ドラムは打ち込み?でもちょっと揺らいでいるような。。
Secret Track:録音はまずいけど、雰囲気がいい。波の音も。ラッパー(さんですか?)はこういう時のアドリブに強くていいねえ。→あとで教えてもらったところによると、これらはバーベキューしながらふたつのチームが相手の曲を唄いながらハモっているのだとのこと。波の音はmixだそうですが、いい感じだ。
しばらくはこれに載せてがしがしと聴いている。
以前からPat MethenyのライブDVDが欲しいと思っていた。前にビデオで見たことがあり、いつか手に入れたいものだ、と。今日もそう思いながらふと車のダッシュボードをみると「Pat Metheny Group: We Live Here」と書いたケースがある。何だ、いつの間にか買ってるじゃん。全然覚えていなかった。危うく二度買いするところだった。^^;;
1995年の日本でのライブ版である。再び見てみると、やっぱり素晴らしい。フロントローのパットやライル・メイズもいいにはいいのだが、後ろに立っている二人のマルチプレイヤーの活躍ぶりに感心する。背中にギター担いで歌唄ったり、マリンバを叩いていたりする。必要な音はナンもカンも全部やります、という雰囲気だ。
で、彼らを含めた全員のチームワークが素晴らしい。みていて「本当かよ、おい」と笑ってしまう。めちゃめちゃにかっこいい。
究極のバンドの一つじゃないかと思う。
いい音で聞かないと良さがわからないかも。部通のテレビではなくて、ちゃんとしたオーディオ出力か、ヘッドフォンなどで。
今年はめずらしいことに、紅白歌合戦をほぼ全部、家族で観ることになった。私的評価表を載せておく。こんなに綿密に観たのは初めてのことだ。:)
気づいたことは;
ショップでCDを見かけたので買った。美しいデザインのジャケットだ。かっこいいー。もうここで半分溶けている。
「トライアングル」:ぼわっとした曲。ドリカムのシングル「Snow Dance」曲にくっついていた「Dragonfly」というやつに似てる? …と思ったら、なんども聴いているうちに印象が変わって、いまはそうでもない気がする。
「音色七色」:こういうヘンなギター(?、シンセかも)の合うようなメロディをばっちり片付けられるのが元ちとせらしいところ。歌が巧い。アート・ガーファンクルの曲のような処理。「この街」にもそういうところがあった。
「千の夜と千の昼」:変わった歌詞。シンボリック。よく聴くとめちゃくちゃ歌が巧いのがわかって来る。
「いつか風になる日」:本CDで一番いい感じ?の曲。わずかに三線を入れながらも、そちらに流れて行かない。前奏で奄美・琉球のイメージをすこし映し出すだけ。美しいメロディ。
「翡翠」:翡翠だからか、ややチャイニーズな雰囲気のメロディ、あるいは前半はやや琉球音楽のように感じられるところもある。ここのところは非常に微妙なところで、彼女の島唄へのこだわりと、琉球楽器の方法論と、安易にそちらに流れて行かない曲自体の表現の危ない綱渡りが必要なのかも。一番微妙な曲かもしれない。声の感じとメロディがぴったりあって、ゆったりと浸っていられる。
「オーロラの空から見つめている」:この曲と「月齢17.4」はまた新しい方向かもしれない。まあしかしなんだかんだと論評するのがばからしいくらい、美しくてかっこいい。私は山崎まさよし(さん)をあまり聴いたことがないのだが、こういうのを聴いているとすこしは耳を向けてみるか、と思う。
「この街」:良く耳にした曲。間奏がアート・ガーファンクルの曲風。
「月齢17.4」:ちょっといや味なくらいステロタイプに決まったイントロから始まるのだけど、どろどろどろっ、と溶けて行って、しまいにはジャズ的シャウト。。ますむらひろし的あやしい猫の感じ。
「百合コレクション」:あがた森魚のカバー曲。ニューエイジ的ギターから入って、イメージは「星の王子様」か宮沢賢治か、佐々木昭一郎の映像のような雰囲気。美しいような、うらぶれたような。。
「ウルガの丘」:松任谷らしい「作り」の感じられる曲。そう言われなくてもこれだけ雰囲気が違う。コラボーレーションならスティング、矢野顕子と演らせてみたい。
全編にわたってバックバンドがいい仕事をしている。声がトンがっているからか、アレンジもどこまでも行ってしまえ、という感じ。
なんども聴くほどにさらに良くなってくる気がする。当初はその声の奇異さに興味があったが、今回それは歌の巧さにフォーカスするようになった。良く聴くと、あるいは聴けば聴くほど、このひとはものすごく歌が巧いのだとわかる。圧倒的な表現力で、音階を昇りつめて、「行け、行け!」と思っていると本当にその音程まで行ってしまう。トリックなし、声の力でその世界へ行ってしまう。
考えてみると、最初の声の奇異さから来る感じを除けば、彼女は民謡の中ではなく、ポップミュージックのまっただ中にいる。しかも他の女性ボーカリストを圧倒的に凌ぐ存在感を持って。彼女の声を聞いていると、JPOPの他のほとんどの女性ボーカルの歌も声もまさしく「十把一絡(じゅっぱひとからげ)」と感じる。ほとんど匿名的。「結局、君達、何やってるの?」
そこらへんの「ソウル・ミュージック」より、はるかに「ソウルフル」。
やはり「人の声」の、音楽におけるもっとも幸せな復権なのだと再度、思う。
あの歌い方がこちらの生理に合っているのだろうか、すんなりと気持ちよく聞けてしまう。「翡翠」など聴いていると特にそう思う。何の防御もいらない。身構えも必要ない。ただ浸っていればよい。
もう、日本の女性ボーカルは彼女だけ聴いていればいい気さえする。
…で、本人の方は、先日MTVのインタビュー番組に出ていて「いつか風になる日」のビデオ撮りの話をしていたのだが…話し方のノリが。。よいのだ。ちょっとマジな話をして、司会者が「いやーいい話ですねえ」というと「はい、500円」とか。。いい人です。
しかし、カラオケで歌うのは…そうとう難しそう。
実は私のページの読者の方から以下のようなコメントを頂いた:
「元ちとせ」で検索してたどりつきました。
読みごたえのあるすばらしいページです。
ぜひ,次の対談についてのコメントも読ませてください。雑誌SWITCH最新号に,
池澤夏樹×元ちとせ対談「時を繋ぐ唄の力」が掲載されて
います。
ということで「SWITCH」を探した。
SWITCHは「スイッチ・パブリッシング」という出版社が発行している雑誌だ。メールを頂いたのは6月末のことだったのだが、MOOK的な本だからか、バックナンバーが書店に並んでいて8月になってからでも見つけることができた。この記事を書くために出版社のホームページを探したが、本を見てもwebを見てもそれらしきものは見当たらなかった。いまどきのクールな雑誌がwebページを持たないのは、それ自体がクールなことなのかもしれない。
で、読みました。「July 2003 Vol.21 No.7」号。本号は「LOVE & HATE [その琉球弧たる声]」と書かれた特集号で、池澤・元対談以外にも琉球関係者が何人かインタビューを受けている。どの記事も興味深いものであった。
本号で元ちとせが対談で答えている内容と池澤がその後にコメントしている内容は、過去にNHKが放送した番組(音楽達人倶楽部「元ちとせ」)や「ニュース23」の取材に符合する。答えている元さんのことばがきれいなのに感心する。彼女にとって島唄がコアであり、その島唄は「ブレイクしたから外に向けて売る」ものではなく、島にあるべきもの、という意識がつたわってくる。だから彼女は自作アルバムに島唄を入れることには非常に慎重になっている。
前にも書いたかもしれないが、仮に彼女がこの先「ヒットチャート」という意味で忘れ去られることがあっても、彼女はおそらく島で平気で自分の島唄を歌っていると思う。それはそういうもの、という感じ。きっとこのSWITCHの写真の、片手にバッグを提げ、手にサイフ(らしきもの)を持って久高島のマチヤーに入って行くこの人のノリは変わらないんだろうと思う。なんか見ていて嬉しくなっちゃうなあ、この写真。
対談の後のページで池澤が元ちとせを語っている。国全体が都会化し、人が都会に流れ、都会人は「故郷」を後に置いて来て、かつ「田舎」の力自体が弱まって、都会に出て行った人達をつなぎ止める力が弱くなっている社会であるが、その中で、まれにも「故郷の力」を失わないでいる地方の一つが奄美を含めた琉球である。その故郷とのつながりを強く持っている元ちとせの音楽だから、故郷とのつながりを失いつつある現代の人々に訴えかけるものがあるのだろう、というのだ。NHKの放送で、ライブを見ていた若者が「なんか『民族』って感じがしますよね」と言っていたのを思い出す。
「サンゴ十五夜」の歌詞を引用しながら、都会はこのような神秘の物語を生まない、と池澤はいう。田舎の持つ神秘の力。神秘は解釈不能であり、それは元ちとせの魅力でもある。解釈不能を解釈するのは難しいことなので、いまは私にはこれ以上はまとめ切れない。ただその解釈不能に揺られてうっとりとしている。(実は「解釈はいらないのだ」ということを最近感じ始めている私なのである。)
面白い雑誌でありました。紹介どうもありがとうございます>読者の方。
数日前、深夜のテレビでやっていた。何日か連続の、おそらくは当日昼間から続いたセッションの特集のようなもの。TOKYO JAZZ 2003であった。
始めの方は全く観ていない。ジョシュア・レッドマンのトリオがフリージャズ的な曲を演奏しているところだった。
こういうフリージャズを聴いていると、すでにフォーマットとしての新奇さはまったくないことを実感する。それは20年以上前から山下洋輔(や、もちろんいろいろな海外のプレイヤー)などが行っていたことである。そうすると「今のジャズは、なにが新しいのだろう」と考えてしまう。
この時代の音楽はすでに全てのメソッドがミックスしてしまい、クラシックからポップス、エスニックミュージックまで演奏フォーマットにはほとんど境界がなくなってしまった。しかも、演奏のための楽器のテクノロジーはすでに飽和的になっている。映画の世界の「CGなんでもあり」に近いのかもしれない。
ジャズ自身も変わった。なにかのエッセイで村上春樹も言っていたが、以前、ジャズは人生であり、思想であり、政治的・社会的メッセージであった。しかし近年になってそのような側面はほとんど失われ、現在のプレイヤーにとって、ジャズはフォーマットであり様式であり、習得すべき技術となっている。世界はさらに細分化された民族やグループの軋轢のなかにあり、その中で政治的・社会的メッセージを生み続ける、「黒人種」とは別のカテゴリの音楽が出てきていると考えられる。
そこにおいてジャズはなにが新しく、先進的・前衛的なのか。
実のところ全然新しいところはないのだろう。すでにそれは様式として消化されてしまった。
そうすると、我々がジャズのライブで感動するのは、ライブの現場で感じるプレイヤーのエネルギーに対してなのかもしれない。
ジョシュア・レッドマンは少なくともその力を持っている。トリオの演奏だったが、テレビを途中から観た短い時間では、他の二人からはそのような力は感じられなかった。突っ走るレッドマン。
(メロディやフレージングのセンスまでを観る時間的余裕はなかった気がする。彼のトリオの最後の曲のおしまいの方を聴いた感じ。)
その後に当日の「スーパーセッション」が放送された。ハービー・ハンコックのピアノ、ジョシュア・レッドマンのサックス、ユッスン・ンドゥールのボーカルとパーカッション部隊(ベースも?)、そして「スピーチ」というラッパーのチーム3人、一部にジャック・ディジョネットの「ドラム」。そして渡辺香津美のギターと弱冠17歳の高校生ジャズ・ピアノ・プレイヤー、松永貴志。
まずはハンコックのピアノでユッスン・ンドゥールが歌いだす。伸びのある声、ゆったりとしたノリ。スピーチがスキャットと喋り(flowというのか?、ラップの歌い方)で引き継ぐ。
今回の曲はすべてユッスンの曲だったとかで、ラッパーの3人にはやや不利な状況だったといえる。しかしその中でも、やはりきれいな歌声の力は強い、と実感した。ラップの「flow」による語りは、あの環境では説得力をもたなかった。スピーチたちはユッスンに「喰われた」形になった。ユッスンの声はすばらしい。伸びるセクシーな声。
ジョシュア・レッドマンはここでもばりばりである。フォーマットがあってもなくても彼にはあまり関係ないらしい。そのパワーが伝わって来る。
途中から加わった渡辺香津美はいつもの調子であった。スケールアウトのしかたが日本的、というか香津美的。
松永貴志はまったくの怖いもの知らず。そこらへんに大御所がいようがどうしようが、自分にできることをばんばんとやる。現代的なジャズミュージシャンだと思った。今後、自分がやっていることにどんな自分なりの理由づけをしていくのか、が期待できる、頼もしいプレイヤーだった。
「楽しそうだなあ」という、うらやましいセッションであった。