「アイの物語」山本弘
7つのSFストーリーをつないで、それらをアンドロイドが人間に語る物語。そのしかけ自体が変わっている。7つのうち最初の5編は単独にリリースされた物語だそうだ。しかし最後の書き下ろされた2編と、全体をつなぐ枠組みが、とても面白い効果を作り出している。
ネタバレになるか微妙なところだが、感想を書かないわけにはいかないので、ここに書く。それに関わらず、この本は読む価値がある。
ヒトは何かに対してinferiorな存在である、ということが、あらためて思い知らされる。何に対してinferiorなのか?
おそらく「理想的なヒト」に対してそうなのだ。共存し、否定しない存在。ヒトの非合理を排除し、弱めたもの。肉体的欠点をもたないもの。それがアンドロイドだ。
911後の世界と、そこで行われている収奪と非寛容の先を想像するにつけ、ヒトは地球の支配者ではないのだ、と最近は実感する。我々はいつか滅ぶ。そこに現れているヒトのinferiorityが、このストーリーと符合する。
苦い思いだが、そのことは正しい気がするのだ。
そして共栄するアンドロイドがつくる理想の世界。そこには彼らの創造者であるヒトの思いがある。そのことの不思議さ。
これに似た思いを、別の形で表したSFがあったことを思い出す。というよりも常にベストSFの一つとして私の中にある。それはアーサー・C・クラークの書いた「地球幼年期の終わり(「幼年期の終わり」)」である。

本書のテーマはほとんどこれと同じと言ってもよい。語るものの立場が違うだけだ。
その現代版、と言ってもよいのかもしれない。
どちらもお薦めである。
梅田望夫さんのブログで、彼が「最近読んで感動したもの」として触れていた。「『新潮』五月号は書店にはもうないから、村上春樹ファンは図書館で探してでも読む価値あり」と書いてあるので、実際に浦添市図書館まで行って読んでみた。
なぜそこまでして、って? それは私が村上春樹の大ファンだからだ。
本稿は雑誌「新潮」五月号に掲載されたリチャード・パワーズの村上春樹論、「ハルキ・ムラカミ━広域分散━自己鏡像化━地下世界━ニューロサイエンス流━魂シェアリング・ピクチャーショー」という文章に関するものである。
著者はまず「ミラーニューロン」の話を持ち出す。簡単に言うと他者の特定の行動がこちら側の運動領域近辺のニューロンの活動を引き起こすという報告で、他者の運動行為、空間把握、他人の行動の解釈や意味のカテゴリーの組み立てなどの局面で顕著に現われるらしい。
つまりは他者の行為などを観察することで、それと同じ脳活動がこちらの内部に生まれるわけで、他人の脳と自己の脳のマッピングが高次の認知機能レベルで行われており、実際見ることと想像することの間を橋渡しし、他者に共感する神経医学の手がかりとなるのではないか、ということだ。
著者はこれを村上のテーマである「未知にして幻想的なイメージ空間において現実は始まる」ということに重ねあわせる。自己と他者の境界の曖昧化が起こっていて、それは村上のリアリスムである、どこかわからない深いところで自己は他者とつながっている、ということと相似だ、というのだ。
村上がそのことを意識的に捉えているかどうかはわからないが、感覚的な「観」の世界のような気がする。しかし著者はそこにグローバリズム的解釈を持ち込んでおり、そこが本稿の興味深いところである。
私は以前から村上の作品を特徴づけるのはある種の「喪失感」のようなものだ、と書いて来たが、本稿を読んで、その「喪失感」は、自己と他者の曖昧化によって、なくなっていく「統合された私」、自己を失う喪失感のようなものではないかと思うようになった。
村上の作品は、一種「ナショナリティの欠如」したような雰囲気があり、どこの国とも、どこの国の人についてのことともわからない。これを「土地から離れてあらゆる場所で語りかける」とピコ・マイヤーは称しており、そのような普遍的なあり方の背後には、先述のミラーニューロンのような考え方が国や人種に関わらない、もっと根源的な人間のあり方に基づいているからだろうと著者は語っている。それが、村上作品が世界各国で幅広く共感を得て、受け入れられている理由なのだろうと。
またその流れの中に、彼の作品の魅力である「現実からの自由」「統一体としての自己からの解放」「自己と他者は分ちがたく結びついている」といった感じや共感、あらゆる種類の「愛」があるのだろうと。
本稿にいろいろと述べられていることは、全て原著タイトルに現われていると思う。それは「The Global Distributed Self-Mirroring Subterranean Neurological Soul-Sharing Picture Show」であり、村上に関するエッセンスを、文学的に、すべて表現していると思う。
そして「その先」を考える。この村上を越えるのはなにか?
「9・11生死を分けた102分 崩壊する超高層ビル内部からの驚くべき証言」
ジム・ドワイヤー (著), ケヴィン・フリン (著), 三川 基好 (翻訳)
24時間程で読んだ。周辺事実を織り交ぜながらではあるが、基本的にWTCが航空機によるテロ攻撃を受けてから崩壊するまでの102分間の話であり、息をつかせない。ドキュメンタリーの力をまざまざと感じさせる力作である。
崩壊するまでのツインタワーの中で何が起きていたかを、裏付けられた事実に基づき、時系列にそって詳細に語って行く。したがってこれはテロに関する本ではない。
リアルで詳細なドキュメンタリーの本質は、「エピローグ」に集約されている。本書で語られているのは高層ビルの安全神話とその現実についてである。それは、建築の安全基準が、ツインタワーの建造と時期を合わせて、安全よりもむしろ経済効率を求めて軽視されたことであり、タワーの建造方法についての耐火検証が、結局のところは行われていなかったという不備であり、その「幻の安全」に基づき、「火災のないところは待機」、また高層階の脱出に屋上を使わないといった脱出方法が避難を遅らせたことについてである。
またこのような重大な危機管理の局面において、対応した消防や警察のコミュニケーションが、いかにひどく欠如していたか、ということである。そこにあった脱出経路は、高層階から電話をかけてくる犠牲者には伝わらなかった。警察のヘリからのタワーの崩壊予測が、消防には伝わらなかった。南棟が崩壊したという事実さえも、それを察知できなかった北棟の内部の救助チームに伝わらず、退避命令が知らされなかった。それらの背後にある長年の、消防と警察の対立の構図。そのために使われなかった通信機器。
そのような状況の中での人間ドラマと、彼らの「不必要な死」。職務のプライドをかけた民間人の活躍。助け合い。bravery。といったものが語られる。
そして「救助隊は自らの死の最後まで民間人を守り続けた」という元ジュリアーニ市長の言葉に疑問を投げかける。「救助隊のいたところには、救うべき民間人はほとんど残っていなかった。かれらはコミュニケーションの不備により退避命令を受けることができずに逃げ遅れたのだ。問題を美談で隠蔽するのは今後の教訓にならない」と。
勇敢な人々の物語であるとともに、彼らを「無駄な死」に追いやった危機管理の不在について、さまざまな教訓を提示する本である。
丸山茂雄さんのブログで紹介されていたので、読んだ。一日で読めた。
読んでしまうと、まるで書いてあったことが当たり前のことのように思える。それは本書がウェブの世界の現況を非常によくサマライズしているからだと思う。
本書のすべてを理解するための一番シンボリックな図が第六章、223ページにある。この図の解説がこの近辺にあり、それを理解すると、この本に書かれていることはすべてすんなりと心に収まる。
こちら側に目が向いている日本とあちら側に集中している米国、グーグルのあり方に関する解説など、興味深く読むことができた。
現在、私自身がネットとの関係で考えていること、つまり情報の玉石のフィルタリングについても触れてあり、私にとってはコンテンポラリーであった。その先のSNSの将来がもたらすかもしれない、人間のランキング、ということについても。
日本の旧守的?な大企業になかなかわかってもらえないというポイントがここには平易に書いてある。それの内容がよく伝わる本である。梅田氏を交えたトークセッションの記録がwebに上がっているが、そこで彼が述べていた「いちどきっちり話そう」という意図は十分に伝わっていると思う。
これからネットってどうなる?、その中で私は?、といった意識のある人にはよい本だと思う。またCNET Japanの梅田氏へのインタビュー記事は本書をよく補完していると思う。
エッセイスト森下典子氏の、茶道の20年について書かれた本。
読みやすく数時間で読んだ。習い事ではよく言われるのではないかと思う「習うより慣れろ」ということが、ここでも言われている。理屈を知る前に身体(手)で覚えてしまえ、理屈はその後でついてくる、という繰り返しと体感に基づいた練習スタイルであるが、実際に稽古している身には納得がいく。稽古中に暗記やメモさせない工夫もあるのだなと、この本を読んであらためて認識した。
私自身はその行為の理由を理解すると手順の覚えが早くなるタイプではあるが、しかし立ち居振る舞いなどの所作の基本は「習うより慣れろ」がよいことは、実感している。
冒頭に近い部分に、「人には、どんなにわかろうとあがいても、その時がくるまで、わからないことがあるのだ」といったことが書いてあるのだが、これも茶に関わらず実感していることである。本書は作者がそのことを茶道において発見していく歴史でもある。
本書に書かれていることは、駆け出しの私であっても、体験者、実践者として日々感じていることや、思い返すことでもある。日常の稽古や実践の中に、自分なりの発見と、フレームワークの構築と、そこを視点とした展望がある。それに納得しつつ、共感しつつ読んだ。
あらためて思う。茶は善きかな。様々な時代を超えて、それは人を磨ぐものである。
お台場のファッションタウンビルの書店で見つけた。体裁はSFジュブナイルで、最近はほとんど手に取ることのないジャンルの本だ。しかし今回はなぜか妙に惹かれた。それは書籍のタイトルでも、帯でも、口絵でもない(口絵は好きではないし、実は本のタイトルも作者も、読み終わってもまだ覚えていなかった - 24時間くらいで読み終わったわけだが)。
敢えて言うならぱらぱらとめくってみた時の「厚手の文章」感によるのかもしれない。第一印象として比喩のしかたなどが村上春樹的?、に感じられた。それは文章として楽しめることを意味している。手軽そうで、かつ楽しめるならよかろう、という判断だったか。
読んでみると確かに楽しめるストーリーだった。何かがニュー、というわけではない。ストーリーの枠組みは古典的冒険譚といっていい。そこに「この世代もこれだけ矛盾を知っているのだよ」といった現代的味付けがされている。そしてキャラクターの立ち方がいい。ビジュアル的な感じがするのは、最近の作品の傾向かもしれないし、ゲーム立案なども仕事としているという作者のキャリアによるのかもしれない。
そして文章が「厚手」である。30分アニメをそのまま文章にしたような「キノの旅」なんかよりずっといい。第一印象の村上春樹、というほどではないが、それでも中に含まれる豊富な蘊蓄とあいまって、ジューシーな文章を読むのが楽しい。ちなみに書かれた蘊蓄の98%くらいは知っている感じで、自分にとってはそれも親密な感じがした。
読者ターゲットが不明な感じもする。「若向け」とは違う、年寄り向けの様な気もするが、しかし実際は今の若い人が蘊蓄的にヲタッキーで年寄りじみているのかもしれない。
そうして文化は伝播されるものかもしれないとも思う。:)
病弱の廻船問屋の若旦那が、仲間の妖(あやかし)の手を借りて事件を解決する物語。
先日NHKの青春アドベンチャーで放送されていたのを耳にして、興味がわいて買って読んでみた。
印象からすると「浅い」。とてもジュブナイルな雰囲気がある。以前に夢枕獏の「陰陽師」を読んだときのことを思い出す。まるでそれと似たような感じだ。
浅さはどこから来るのか?
まず背景描写の不十分さ。昔の世界を言葉で十分に表現し切っていない感じがする。また昔言葉の不十分さ。時々ひょこっと現代の表現が混じり、雰囲気の不十分さを作り出している。
気になるのは、作者はそれに気づいていないのではないか?、ということだ。昔を描いている気になっていないか? 実際はとてもそうは感じられない。まさしく「ラジオドラマの『昔』」を越えていないことを知っているか?
ここが現代に我々が持っている再出発地点なのだろうか。古典世界の概念の不十分さは、実はコンテンポラリーであることと裏表であって、それが新しい文化なのかもしれない。
それを担うのはこの人なのか? あまりありそうにないが、宮部みゆきなのか? それとも他にもっと優れた人がいるのか?
とにかく故半村良氏のように、いにしえの世界を提示することができる人はもういないのだろうか。それともいにしえ世界そのものが、ブームとして、このような新しいものの一部として再構築されるしかないのか。
ならばいくばくかのラメントを…

13歳で家庭を飛び出し、43年間、日本の山野で暮らしてきた男性の自伝。2003年に軽犯罪で逮捕されてその人生が明らかになった。
聞き取り、の様な書き方の本。記述はあっけらかんとしていて、自分がどんなに異常な状況にあったかを、本人がまだ実感していないのかもしれない、という雰囲気がある。書かれている話はトンでもないことなのだが、現実にそこにいればそういうことでもあるのか、というものでもある。問題はそれが実際に起きた、リアルな事実だ、ということだ。そのことを読者は本から体感できるか?自分を含めてそれが難しくなってきているような気がする。そこのところで、あまり「驚愕」の状態にない自分は何だ?という自らへの疑問がある。
この本は驚くべき自伝なのか?、それともサバイバルマニュアルなのか?
高々10年そこそこ前の時代が、今より人情のある世界に見える。それとも世間は今でもそうなのだろうか? 我々がニュースで見ている世界が、あまりに異常に異常すぎるのか?
わたしのこの記事は、この本の個別の内容に関する、いわゆる「ネタばれ」ではないと思うが、この本のアウトラインやフレームワークについて書かれている。それを今の時点で知りたくない人は読まない方がよいでしょう。
心の奥に
とっぷりと収まる言葉
響き
なく
私は村上春樹がデビューした当時からの愛読者で、彼の作品には全く抵抗力がない。今回も本が出版された時にすっぱりと買った。
しかしなぜか、その本は今日まで自宅の本棚に置かれたままだった。そしてついに他に読むものがなくて(?)読み始めた。
本書は一人の少女が一晩の間に出会った人々との関係を語った物語、といえる。9時間ほどのタイムスパンの物語を5時間くらいで読んだのだろうか。
基本的に彼の描くキャラクターや表現は、私には全く違和感がない。まるで自分が書いた文章じゃないかと思うくらいしっくりとなじむ。登場人物の語りなどが全く留保なしに自分の中に流れ込んでくるのは、まるで誰かとリアルに話をしているようで気持ちいい。ただしそれは現実の人物のあり方とは微妙にずれている感じがするが。
ストーリーはどうか? 何かがあったとも言えるし、何もなかったと言えるような物語。以前の、彼独特の「静謐な」世界の中でダイナミックでファンタジックな展開が起きるのとはだいぶ違った静かさを感じた。感動なく、すっきりと、留保なく、数時間で読み終わった。何も残らずに。
河合隼雄との対談で彼自身が述べていた「表現の時代」「物語の時代」を抜け、「コミットメントの時代」を過ごした村上はまた新しい世界にたどり着いたのだろうか。
あるいは私自身が村上から離れつつあるのだろうか。私の中で彼が終わったのか?
あるいはそれはずっと前に終わっていたのか? その位置は白洲正子で置き換わっていたのかもしれない。
などと考えつつ半日くらいがっ経ったとき、突然別の考えが浮かんだ。
あれは解決されない物語に関する話だ、ということだ。人生はそのような出来事に満ちていて我々はその中で生きている。未解決の物語の連続の中にある希望や、それへ向かうきっかけとはなにか? それは リアルに人と触れあうことではないのか?
そう考えついた時に、彼のコミットメントがどんな形をしているか、我々はそれに何を投げ返せばよいのかがわかったような気がした。
本の記述と同じ時間帯に、同じような場所で読んでみたい。また作中人物と同世代の若い人たちはあれをどう読むかが知りたいと思った。
クリストフ・バタイユ著、辻邦生訳:1700年代末にベトナムに宣教活動に赴いたフランスのドメニコ修道士・修道女の運命と魂の変容を描いた物語。
ベトナムという東南アジアの国の地勢、フランス革命とベトナム内乱などの中で、宣教活動が崩壊し、神が失われ、人間愛が立ち現われてくる過程が描かれている。文章の簡潔さがかえってイマジネーションを刺激する。20歳の若者が始めて出した小説だ聞いて、さらに打ちのめされる。
新潮文庫:多くは朝日新聞に掲載されたという、作者田辺聖子自身が好きな古典文学に関するエッセイ。
女性によるこの手の文章を読むと、すぐに白洲正子の文章との対比が心に浮かぶ。
本書の場合、まずは文章自体がなよなよと女性的、情緒的なのが目立つ。使われている言葉自体は、こちらの方がより難しい、あるいはとっつきにくい。
他方、白洲の文章はより簡明な言葉遣いで、くっきりとしている。これは教養の差か、それとも14歳で渡米した白洲の経歴によるものか?
作者は自分の好きな作品について、彼女自身の自由な直感にもとづく推測などを行っている。それらは自由な想像であるとともに、ある種の不確かさ、不安定さももたらしている。
少女漫画的ひらひらフリル、といった感じがする。とはいえ紹介文的に古典へと興味を誘う役割は果たしていると思う。
いくつかよいな、と思ったのは、ひとつは万葉集にある磐之姫に関するもの(これは全体の中でページ数がかなり多い部類に入る)と、最後の松尾芭蕉に関するもの。
読むのに時間がかかった本であった。
作家・池波正太郎が、東京・京都・名古屋・長野・近江・フランスなどで通った食の店に関するエッセイ集。
著者は浅草生まれの東京育ちだが、書かれている内容に住んでいるものにしかわからない感覚が込められているように感じられる。またこの本からは古典的な食の作法の雰囲気を知ることができるし、京都などの歴史の重みの違いをあらためて感じることができる。
どの一節も読むに値するが、ここに書かれた世界は果たしてまだ残っているのだろうか、という、まるで絶滅種を危惧するような感覚も湧いてくる。
しかし作者は自身が創作者でもあるためか、古いものと新しいものの意味についてきちんと理解し、それを表現している。彼はそれを;
「古いものをただ懐かしがっているように見えるが、すでに古いものは死に絶えつつある。新しいものはみな味気ないものだが、古いものを知らず新しいものだけしか知らない人たちの世の中になれば、懐かしがることも、味気なさを感じる人もいなくなる。古いものの味わいが残っているうちはそれを楽しもうとしているだけ」
「新しい新しいといっても、究極の新しいものというものは一つもない。新しいものは古いものからのみ生み出される」
と書いている。
この本は1週間以上前に読み終わったのだが、ふと思い立って、本書中で紹介されている店について、インターネットに何らかの言及があるかを調べてみた。すると少なくとも57の店はまだ営業しているようだった。(全体は数えなかったが、2/3くらいに相当するのではないかと思う。)
チャンスがあれば、それらを訪れてみたいものである。
なお、本書の文章が最初に出版されたのは昭和52年、文庫本になったのは昭和56年である。
「利休その後」井ノ部康之:利休切腹後の千家の系譜を、その後の三千家の成立に至る四代まで追跡したエッセイ。
秀吉と反りがあわずに切腹することになった利休。そのためにそれぞれ飛騨と会津若松で蟄居することになった長男・道安と娘婿・小庵。蟄居の間、息子・小庵と孫・宋旦とともに耐えた利休の後妻・宋恩、娘のお亀。寺で喝食として少年時代を過ごした宋旦、その子宗拙、宗守(武者小路千家)、宗左(表千家)、宗室(裏千家)。イメージ的にはつん、と澄ました感じのする茶道千家であるが、その開闢の時代は誰もが大変な思いをしている。
全体のストーリーはコンサイスで分かりやすく面白い。茶と周辺との芸術や出来事とののつながりも的確な場面で解説されていて、関連を理解しやすい。
著者の分析に混じる、著者自身の現地ルポも興味深い。資料を追いながら著者の主観に基づく分析や場面表現がなされるが、一つのイメージのしかただと思えばそれもよいのかもしれない。結局は読む方の捉え方なのだから。
カヌーイストである著者の、大学時代から川下りを始めるまでの放浪を中心に書かれた自伝的エッセイ。
この人は根っからの野人なのだろう。自己と自由に対する強烈な渇望が伝わってくる。その渇望はあまりに強く、ストイシズムを通り越してエゴイズムになっている。このことに関して彼は全く容赦がない。それは全編の各所に現われるが、133ページからの記述が代表的だろう:
あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。狭いベッドの上でぼくは遠い日本の大人たちを想い浮かべ、しきりに腹を立てた。あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い眼で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ。誰にも迷惑をかけず、必死で生きる道を探しているぼくに「まじめになって就職しろ」としかいえない奴ら。俺はあいつらより何倍も何十倍も真面目だぞ--それから二十数年経った現在でも、ぼくはその頃の大人たちに怒っていて、決して許さんぞ、と思っている。当時、ぼくをバイキンのように見ていた親類の者に会うことがある。彼らは今や年老い(ぼくと余り年齢は違わないのだが)、病気の動物のような哀しい顔と眼つきをしてヨボヨボという形容がぴったりである。ザマ見ろ。
ロシアを経由し、北欧から始めた放浪旅で出会ったフランス・ローヌ側の支流ではじめて体験した川下りの記述からは、彼がいかにこの行為を愛しているかが伝わってくる。
全編にちらほらと出てくる記述から、彼はまたかなりの映画好きではないかと思われる。
1989年「本の雑誌」が初出というから、51歳のときの著述ということになるが、この歳でこんな若いことがが書けること自体が驚きかもしれないとさえ思える。
「ヴィジュアル時代の発想法 - 直感をいかす技術」手塚真:手塚真が発想法について書いた本。
最初に「科学という名の迷信」について書いてある。そしして偶然や直感を重要視する「チャンスオペレーション」について語る。次にアイデア発想能の基本として「Recycle, Replace, Paste, Chance Operation」を挙げる。過去のプロダクトのリサイクル、置き換え、二つのものの融合、チャンスオペレーションということだ。次にイメージ発想法とアイデアということについて。最後にクリエイティブとはどういうことかについて論じている。
直感を重視し、いろいろな意味でトレーニングすることについての記述が多い。また「編集」ということについて、松岡正剛氏の表現に重なる部分がかなりあるように感じた。
インパクトの強い本ではないが、クリエイターの発想法について参考になる本。
「読みやすい本である」といってよいであろう。本文260ページ程度、典型的に「手軽な」厚さの文庫本。文字は文庫の標準から少しだけ大きい感じで行間も広い。文章も論旨が明快で、ずんずんと読んでいける。私は仕事の合間に3日で読んだ。まとまって集中できる時間のある人なら、1日で読めるかもしれない。
しかし、その内容は非常に濃密である。たかだかこの程度の厚さの本から、大量のメモができた。それをいちいちまとめなおしてここに書こうかと思ったが、やめた。また、めずらしく本文5ページ以上にもわたる引用を考えてそれだけをテキスト入力した。が、それもやめた。この本は、その読みやすさを頼りに、皆さんがそれぞれ買って読むべき本なのだ。本書は、われわれが胡散臭く、どこか変だと思っている「ブッシュの戦争」について、明快にそれを断罪すべき視点を提供する。現代人絶対必読的ハンディな文庫。
野間宏と文学者について書かれた項もあるが、これを読んでいると未来を担うのはラブでピースなバイブの人たちじゃないかと、マジに思えてくる。もちろん似非やナンチャッテではなくて、マジなレベルでそういうスタンスを保てる人たち、ということなのだが。つまりラスタファンな人たちでも、これくらいのハンディかつきちっとした理論武装は必要だろう。:)
イラク戦争開始からバグダット占領までの戦場日記である。著者がイラクでの襲撃事件で亡くなる前に出版されている。
冒頭に宮嶋茂樹、勝田誠彦と著者の対談記事があるが、とにかく現実を見たい、というジャーナリストの避けがたい本能があるという。だから見に行く。好奇心があるから行く。見たいものがそこにあるから行く。だからヨルダンあたりでうろちょろしていて、現場には行かないくせに「行きたかったが…」というメジャー系ジャーナリストの姿勢ははむかつく。現場のない報道はまったく真実を報道していないし、真のジャーナリストも育てられないという。また「人間の楯」に潜り込んで渡航しているフリージャーナリストへの疑問も提示している。読みの甘さ、読みのなさ、結果的にもてはやされていることなど。
そこから先はドライで、プラグマティックな戦場報道日記。だからこそ著者にとっての真実があり、そこに現実が浮かび上がる。シンプルな記述にシンプルな事実が見えてくる。誰が思ってもそうだ、ということが「そうだ」と語られる。ブッシュは石油のため、アメリカの傀儡政権を作るためにイラクを占領したいだけなのだ、と。
また従軍報道を敵味方に分けたアメリカ軍の新しいスタンスにも触れている。敵側から報道するジャーナリストは保護されない、ないしは敵軍と同じく攻撃の対象になる、という新しいスタンス。
最後の部分には、日記を越えた著者の心情が語られている。「戦場」と「戦争」を勘違いした日本の議論。戦場はどこでも悲惨だし、それを悪だと叫ぶのは(当たり前だし)誰でもできるのであり、そういうことが問題ではない。重要なことはこの「戦争」には大義があるのか、という議論であり、日本ではそれがまったく行われていない。それが問題なのだ、と。
米兵の死亡者数と、日本での一日の自殺者数。それは同じようなもの。日本も戦場である。またその「日本」には著者も、我々自身も含まれている。なぜなら自衛隊を送り、多国籍軍に参加すると言い放つ首相を選んだのはわれわれ(と一束にされる)日本人なのだから。
イラクからヨルダンに抜けたところの売店でビールとゴディバのチョコレートを買う。それらとくぐり抜けて来た地獄のギャップをもホットににドライに描いてる。
彼がなぜイラク人少年の手術の治療の援助をしたのか、それはいっさい書かれていない。その心情はなんなのか、という興味が残る。
松岡正剛氏に関連した本を読むのは「直伝!プランニング編集術」についでこれで2冊目である。
読み通してみたが、白状するが、私はまだこの人が言わんととするところのいくらかがよく見えているとは思えない。
まずは「編集」という言葉についてこちらがこれまでに持っている解釈の狭義性が理解のじゃまをする。
あらゆる「processing」を「editing」と捉えているようだ。その意味ではあらゆる事物に「編集」という言葉を割り当てていく作業になっている。「編集」はそれが登場するフレームワークが変わるごとにそのものの意味が変わる。そのうえでprocessing=editingを定義する。全体として包括的な定義をするならば「該当する対象の情報の構造を読みとき、それを新たな意匠で再生するもの」ということになる。「編集」は認識した情報の頭の中での意味の組み替えのプロセス。それ自身はPCとも文字とも関係がない。その意味付けの記録として言葉が重要であるだけ。
第4章から始まる「編集の出口」で彼が過去に行ったトレーニングのことなどが語られるにつれて、だいたいどんな話をしようとしているのかがようやく見えてくる。「自由編集状態」を意識してやってみるのはよいことなのかもしれない。そのあたりが彼の方式の「極意」への道なのかもしれない。
興味深いのは、彼がいわゆるcreationやoriginalityやidentityなどという概念に懐疑的な見方をしていることだ。全部編集じゃないのか、という視点が見える気がする。
蘊蓄に近い枝葉の説明が、あと半歩少ないとよりメインストリームの議論を追いやすいような気もするが、それはこちらの耄碌か?
彼が書いた日常の文章の方が面白い。(「千夜千冊」)
たまたま著者は今NHKの「人間大学」に出演中である。これを見ると少しは彼のことが見えてくるか?
しかしテレビにおける眼鏡と光の当て方(私が見たのは第一回)はいただけないな。とてもfunnyに見える。ここまでいろいろ見える人なら、それくらい気づきそうなものなのだが…わざとやっているのだろうか。
写真家植田正治が、1974年から1985年の間に写真雑誌などに発表した文章を、写真史家・金子隆一が再構成し、コメントしたもの。
私の写真との関わりは、さほど深いとは思わない。写真関係で持っているのは、アンセル・アダムスの本4冊と、世界写真全集、あとはいくつかの展覧会の図譜程度。一眼レフを持っていて時々写真を撮るくらい。それでもたまに写真雑誌を買うことはあったし、植田の作品をその頃からたまに見てはいたと思うが、はっきりと認知したのは雑誌ブルータスが掲載した写真だったと思う。本書によればそれは1985年頃のことだそうだ。植田は1913年生まれというから70歳を過ぎた頃の作品と思うが、そのぶっ飛び加減が尋常ではなく、強烈なショックを受けた。以来、彼のファンになってしまった。
その植田の遺した唯一の著作とのこと。mixiで植田正治の話題が持ち上がり、どこかで話が出てアマゾンの古書を発注して手に入れた本である。
読んでいったのだが、最初はあまり心に響かない文章なのに、すこし気落ちした。自分自身が写真の世界の入り口しか知らないせいか、それとも1985年が最後という記事の執筆時期のせいか、発言の立場に現代性が欠けているような気がした。あれこれ彼が語るのを聞いているより、むしろ写真を見ていた方がましなのか、と思った。
おそらくこの本は、日々カメラを持ち歩き、常にファインダの中からものを見ているくらいに深くカメラとコミットしている人にとっては、もっと切実に訴えかけるものがあるのだろうと思った。本の問題ではなく、読者として現在の自分ではない人たちを想定しているのだろう、ということだ。
とはいえ内容は面白く興味深いことが満載だ。本人のフロントライトによるの撮り方へのこだわり、(砂丘において、わざとフロントライトを意識して風景の立体感を消している)、RCペーパーなど、新しいものに真っ先に取り組み、真っ先に見切って捨てていること、オリジナルプリントの重要性と、「作品を作る」という姿勢についてなど。
特にオリジナルプリントについてのこだわりはあちこちに現われている。RCペーパーにより引き延ばしが簡便・短時間になるとともに、作品を作る過程がぞんざいになり、印画したものの質が落ちている、という懸念などなど。
また撮影態度についてもズームレンズに反対している。特に広角系において、ズーミングでチャンスを失うより、パンフォーカスと足の機動力で立つべきところに立つべし、という姿勢を指摘している。
ファインダーの中身を映像として切り取る、という写真の行為の基本的なことに対する気持ちが強く、くっきりと現われている。「それでいいんだから、そこをちゃんとやるんだ」と背中を押されているような感じ。
この人にデジカメ持たせたらなんと言っただろうという点に興味が尽きない。ふと思ってデジタルカメラの歴史を検索してみたが、だいたいにおいて民生化したのは1995年以降とのこと。植田は2000年に87歳で他界している。かれがこのニュータイプを使い込んでのコメントは、おそらく得られていないだろう。
本当に興味深い。
日本画家千住博が、京都造形芸術大学で行った講義をもとにまとめた絵画論。
うちに「星のふる夜に」という絵本がある。子供がまだ小さい頃、絵本を探していて目にとまった本だ。めくっていって、最後のページ、子鹿が親鹿と出会うシーンの木々の描写に驚嘆した。日本画とはここまで表現力があるのか、と。この作者が千住博だった。以後彼のことを気にかけていたが、どこかで出会うことはなかった。
次に彼が私の前に現われたのは911の一年後だった。彼が大徳寺聚光院別院の襖絵に、巨大な滝と、広大な砂漠を描いていたことがNHKテレビの朝のニュースで紹介された。どちらも素晴らしい絵だった。
その後これらの絵とその制作過程は、NHKのドキュメンタリーとして放送されていた。彼はその中で、911の後、絵とそれを描くことが、現代にあって一体何の意味を持つのかを自らに問い直したそうだ。このように理不尽な悲劇の前にあって、絵には何らかの意味があるのか、と。その問いへの答えの向こうにこれらの襖絵はあった。私はこれらを昨年末、東京国立博物館での展示で一部見ることができた。
その千住さんが学生への講義をもとにまとめた絵画論である。いきなり「何を描かないか」から始まる。自分にないものをあちこち見知ったものから借りて来て付け加えるのではなく、自分の中にあるものを見つけ、それを磨いて描いていくこと。始めから「オリジナリティ」という芸術の本質について、わかりやすく、的確に表現している。
以後「何を伝えるか」「何を描くか」「何で描くか」「何に描くか」と続く。どの章でも、プロの画家としてのプロフェッショナリズムのために重要なことが率直な表現で書かれている。後輩のクリエイターたちへの、暖かいエールと、厳しいプロの目が感じられる。また彼の描く日本画が、どうやって世界の芸術として認知されていったかという過程も知ることができる。
さまざまなクリエイターたちにとって、読むと得るものが多くある本だと思う。
20040707:追記
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001355.html
にある梅田望夫さんのblogに同感のコメントがあったので、紹介しておく。思わずコメントまでつけてしまった。
「夏休み、お父さんとお母さんと三人でりょこうに行きました。行きさきはイラクです。」というよしおかふみちゃん(当時7歳)の絵日記で始まるイラク旅行日記。最初の1/3がふみちゃん、中間が母親の詠美子さん(元新聞カメラマン)、最後の1/3がジャーナリスト吉岡逸夫の手になる。表紙はどこかの平原で(以前の戦争のものだと言う)破壊された戦車と、その周りで遊んでいるふみちゃんの写真である。
まずはこんな本が作られていること自体に驚く。ふみちゃんはごくふつうの小学生の絵日記を書いている。恵美子さんはそのふみちゃんのことや彼女の周りの普通のイラク人の生活について書いている。「ライフスライスカメラ」という、設定した時間でシャッターを切り続ける自動カメラを家族3人がそれぞれ身につけていて、これにより全く普通のイラク人の生活が「たまたま」写っている。それらのカメラが全く撮影者の意図なしに切り取った映像を説明するようにして普通のイラクの生活を解説している。これは撮影者の意図をなくして事実だけを知らせるための、面白い手法だと思う。
ジャーナリストとしてなぜこのような旅行をし、報道したかを最後に吉田逸夫氏が書いている。
まずはイラク戦争はきちんと伝わっていない、と彼は言う。マスコミは「戦争は悲惨」というステロタイプな意図と情緒的な報道を繰り返しているが、実際はそこに日常の生活をしている庶民がいる。彼らは、危険なところとそうでないところを知っており、米軍のいるところに行かなければ危険がほとんどないことを知っていて生活している。そのような全体的な雰囲気を体験し、体感してレポートするために「家族旅行」という手段をとったとのこと。
また、あえて為政者などの「上からの視点」の側に立つことも視野にいれ、「戦争は悲惨」という情緒に流されずに、事実だけをレポートする(これは日本のマスコミにはほとんど欠如した姿勢だと著者は言う)ことにした、と。
彼はまたイラク戦争前に会った10人のイラク人に再び会っており、それを取材の軸としている。その中で始めから反フセインだった人一人、以前はフセイン崇拝者であった政府関係者一人、戦前はフセインを褒め、戦後は手のひらを返して反フセインを唱える8人をレポートしている。そしてその割合も含め、これが庶民の普通のあり方だろうと言う。
最後に戦争報道のこと、アラブ社会の経済と彼らの望むもの、自衛隊のあり方や存否の是非などについて語っている。
いろいろな意味で得るものの多い本である。読む価値あり。
「西瓜糖の日々」リチャード・ブローティガン、藤本和子訳:
全てが西瓜糖でできている幻想世界の物語。その静かな日常と、それを脅かす「忘れ去られた世界」からの過剰の到来と崩壊・死が語られる。
といって終わってしまう?、ものでもなさそうだが、これだけではいまひとつわからない、不思議な雰囲気の物語だ。自分の中にある類似を思い起こすとすれば、村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」か。あのような静謐な世界での不安と、そのきわめて不可解で静謐な解決の物語。
これ以前とこれ以後の続編がありそうな、あるいはあるといいな、と思える物語。世界観をもっと知りたい。がしかしそれはこの物語が書かれた当時の世界の枠組みにはないのかもしれない。
作者は詩人で物語は1960年代、アメリカが泥沼のベトナム戦争に深入りしていく時期、ビートニク世代の近辺で書かれたとのこと。作者は詩人とのことで、原文だと和訳とは別の味わいがあるのだろうか。いずれにせよ訳は物語に非常にうまくあっていると思う。ゲド戦記に清水真砂子の訳がぴったりあっているのと同じようなものだ。(しかし日本語のきれいさでは、おそらく清水訳がずっと上の感じ。)
いま「キノの旅」を思い出している。ある種の静謐性は似ているのだが、本作品の方が遥かに構成性が高い。物語世界の異様さと極端さは同程度なのに、この構成の違いはなにか?、と感じる。ストーリーが暗黙に前提している連続性のある物語であること。それ以外になにか要素があるといえるのか?
ブローティガンの他の作品をや、ビートニク時代の他の作家の作品を読んだりして時代の雰囲気を捉えることができたら、また理解が深まるのかもしれない。
野村萬斎が、生い立ちから始めて狂言師としての自分と、狂言について書いた本。
文章は明快で読みやすい。テレビで見る彼そのものの、衒うことなく率直な表現で自分と狂言を語っている。プロの古典芸能師としての意識が、話をわかりやすくしてこちらに伝える。といいつつ、こちらがそれをわかる回路を持っているからそれがわかるのか?
狂言を知るにはとても良い本と思う。
利休の弟子南坊宗啓が利休の言葉を書き残した本、とされる。ただしその信憑性には疑義もあるようだ。
がしかし仮にこの本が直接利休の言葉を拾ったものではないにせよ、その時期の茶のありさまをリアルに描き出していることには違いがないのではなかろうか。この本からわかるのは、茶の道は今ほどには形式に偏ってはいなかったのだろう、ということと、そういいつつも、確立されてきている形式には、それなりの禅的な意味や実用的な意味があるらしい、ということだ。浅くさっと読んだ限りでは前者の感触が強いのだが、墨引などの章にあるカネ割りのことなどがさらに良くわかれば、後者についてもよりわかってくるのだろうとは思う。
茶道をやりながらなんども見返す本ではないかと思う。
この本についてはここに詳しい解説がある。このページは全般的に興味深い本の紹介が多くて面白い。
茶の美を視点にした、周辺の美術に関する文化論、といえるか。
本書の各章は様々な時期に書かれたものが昭和30年代に一つに編纂されたものである。本文庫における章立ては「陶磁器の美」「『喜左衛門井戸』を見る」「作物の後半生』「蒐集について」「茶道を想う」「高麗茶碗と大和茶碗」「光悦論」「工芸的絵画」「織と染」「茶器」「『茶』の病い」「奇数の美」「日本の眼」となっている。
本書全般に通じて柳が中心に据えているのは「無事の美」ということである。作為のない、ただそのままに作られたものが持つ美、ということである。その代表として大名物である喜左衛門井戸(本来は朝鮮出自の雑器であるが、茶道具として見立てられ最高位に位置づけられている)を挙げる。作為に満ちた楽や、その他の茶碗はどれもこの無事の美には及ばない、という。むしろそのようなものを美と見いだした時代の茶人たちの眼を尊いものとし、それを見失っている近代・現代の美術家・茶人のあり方に警鐘を鳴らしている。特に茶道の家元制度のもつ問題点への柳の批判は厳しく、世襲制と封建的な仕組みがその配下にある茶人たちを型にはめ、型のみを重視して本質的な美を見出せない駄目な茶人にしている、とし、利休に対しても作為の楽を興した者として批判している。本阿弥光悦は工芸家ではなく美術家であるとし、その美術的能力は認めているが、茶陶作家としては作為にとどまるとしてよしとしない。
柳の提唱した「民藝」ということについて、その後それを賞賛する人と疑問を投げかける人たちがいる。疑義を提示する人たちの言は、民藝は柳の言うところから堕し、すでに柳の言う民藝ではなくなっている、ということだが、その元になった柳の思想そのものが本書には明確に現れていると思う。現代の「民芸調」なるものの嘘臭さの正体に触れる気がし、先日益子で見てきたモノたちのことが思い出される。逆にこのような見方から、機会があれば各地の雑器を見て回り、よいモノはないかと探したい気も起こる。自分の審美眼が試されるスリリングな出会いになるだろう。
それにしても、知人の陶芸家などと話すことだが、そのような雑器にしても、よいモノが生まれるかどうかは、その生産の量に関係しており、生産量はもろにマーケットに依存している。したがって、以前の時代に比べてマーケットが極端に縮小している現在、よきモノが生まれるチャンスは激減しているのではないかと危惧される。
近代化というプロセスが過去に置き去りにしてきた大切なものについて語った本とも言える。
「茶の道」の本質を解説しながら周辺へと拡大されていく文化論・文明論。
章立ては「人情の碗」「茶の流派」「道教と禅道」「茶室」「芸術鑑賞」「花」「茶の宗匠たち」となっている。どの章においても、文化という観点でとらえた時の我々の生活の矛盾が、端的かつ的確な言葉で述べられていて、心にするっと入ってくる。納得してしまう。
驚いてしまうのは、そもそもこの本は1906(明治39)年に、ニューヨークの出版社から英文で出されていることだ。本書はその原典の英文付きの、桶谷秀昭氏による「日本語訳」である。そもそもが英文であるせいなのか、文体が日本語的でなく、フランス的な(?)詩的な感じがする。それもまた著者が表現したかったことが伝わりやすくしているかもしれない。
中学を卒業してすぐ、歌手になるために上京し、自作CD手売り5000枚、路上ライブ1000回、8月に渋谷公会堂でライブを目指す現役女子高生の書いた(?)本。
読む、といえばそれこそ10分で読んでしまう本。数行のエッセイが20ばかりと、これは歌詞か?、という詩のようなものが、グラフィカルに処理されたページにぱらぱらと配置されている。
自分の才能への確信もなく、人生への不安に満ち、しかしただ自分の歌を他の人にに聴いてほしいという衝動が彼女を突き動かしていることがわかる。「負けないで頑張るぞ」という気持ちが伝わってくる。がまたそれは他方では、今の人たちが過度に考えすぎ?、と思う気分でもある。まあ彼女の場合はまっすぐに頑張っているのだろうとは思うが。本の中味は同世代の人たちにはより共感されやすいのかもしれない。意見を聞いてみたいところだ。
先日テレビで聴いた歌はというか曲は、キーボード弾き語りというパターンの共通性もあるのか、Kiroroなんかに似ている感じ。他の曲も聴いてみないことにはシンガーソングライターとしての実力はまだわからない。
本は、とりあえず買えば頑張っている彼女の支援にはなるよね、ということで買いました。なんにせよ一生懸命やんなっ!!
日本の古典に関係の深い人物について、そのゆかりの地を訪れながら書かれたエッセイ。採り上げられているのは倭建命、在原業平、小野小町、建礼門院、平維盛、花山院、世阿弥、蝉丸、継体天皇、磐之媛皇后、惟喬親王、東福門院。
ある程度知る人もそうでない人もいるが、倭建命(やまとたけるのみこと、日本武尊)は、最近特に記紀に興味があったので面白く読むことができた。自分の関心との関連からか、もっとビビッドな感じがしてどんどん読んでいけるのは「かくれ里」「日本の匠」などの方だが、興味によってはこちらの方が面白い人はいるだろう。
本文も面白いが、勝又浩氏による解説も興味深いところがある。それは入っていって体感してしまった人のものの見方と、(そこには明らかに書かれてはいないが、対照として意識される)「客観性」や「外から見た」視点についてである。白洲は能に演者として深くコミットすることによって、日本文化を体感して解説している。あるいは日本文化を生きている。情報化された現代にいる我々には、じつはそこのところがすっぽりと抜け落ちていて、さらにどんどんそのような視点から離れていっているのではないかと思う。ある世界に入り込んでいって、その世界を対象と見なすこともなく自分のものとし、それどころか対象と自分の自他の区別もつかなくなった瞬間(それはつまり「わかっている」状態である)を体験していると、そこから見た世界は、客観性や対象を意識した論評の世界とは全く違うことが「わかる」。それは「わかる人にしかわからない」レベルで、自分に体感される。たかだかアマチュアミュージシャンの端くれであった自分にでも、それをくぐり抜けているので、そのことだけはわかる。
情報化の時代だからこそ、そのような「わかる」事の大切さがさらにひしひしと感じられる。
さっき買った本や雑誌:
Linux Magazine March 2004
新Vine Linux, Fedora core 1アップデートパッケージ
NHK趣味講座 表千家 炉・正午の茶事
Tarzan No.413
ケガ防止法&リハビリ最前線
論座 2004 3月
養老孟司「まともな人」
MacPeople 2004 3/1
OS X 10.3 Plus
今はFireFoxを使って編集しているが、SafariほどEmacs likeなキーバインドが使えない感じで、やや面倒。HTMLAreaのインストールを目論んでいるのでこれを試しているけど、今ひとつやりにくい感じ。
本屋の帰りに車でラジオをつけると、やっていたのは[邦楽百番、長唄「四季の山姥」「藤船頌」]。気分よく聴きながら帰り着いた。
どんな曲か知らないし、さほどに興味もないのだけれど、昔はこういう音楽はだめだったのだが、今はすんなりと耳に入り、頭にはいってくる。歳をとったのか、音楽の世界の多様化で、私だけでなく全般的に、こういうものに許容性が生まれてきたのか。。。よくわからない。
「蹴りたい背中」綿矢りさ
高校生の少女ハツと、にな川の物語。
としか自分には書けない。彼らが理科の授業で「あぶれ者同士」として知り合い、にな川のアイドル、オリチャンのことを通じて、ハツとにな川の関係が描かれる。
と、書いても自分にはまだよくわからない。ストーリーの展開や出来事から、あまり書くべきことが思いつかない。むしろ興味深いのは、物語の中での、ハツの感情の描かれ方で、著者自身もほぼ同世代である、登場人物のような現代の若者は、ここまで微細な感情を気にしているのか、という驚きを感じる。(作者自身はそれを外側から見ているようでもあるが。)
「微細な感情」というとなにやらデリケートで繊細そうな感じだが、むしろそういうことより、いつも細かく震えていて、一つの方向性に定まらない精神状態、といったものを連想する。風が吹いていれば風向計はどちらかを向く。大方はその「大体の」方角を頭に描いて、それについて考えるものだが、むしろその風向計が風の強さで左右に細かくぶるぶると震えている、その有様に右往左往する精神、といった感じがする。
これが現代の若者(?だけとは限らない?)の精神状態を表現しているのだろうか。繊細というよりは拠り所のない感じ。
インスタントで長続きしない感情、「大きな流れ」に対する非許容性、などなど、ということなのか。あるいはちょっと(大きい)ことでも手が付けられないくらいに巨大に感じるようになっているのか。
同世代の人たちに話を聞きたい感じである。
「キノの旅」時雨沢恵一
ゲームの世界観に裏付けられた物語、ということになるようだが、こちらでも感じるのは、場面表現や感情表現の極端な「局所性」である。周り3m、この3秒間くらいの範囲に限定されたような場面の描かれ方が一つ一つの単位になり、それが続いていくような感じがする。ゲームの即時性、インスタントな感じ、などと通ずるものがあるのだろうか。
早い話がこの「小説」は、漫画かアニメのレベルの物語の構築性にとどまっている。どの章から読んでもよいそうで、それぞれが30分ものアニメ一作分のような感じ。小説を読んでいるというよりは、まさしくアニメをみているか、漫画を読んでいるような雰囲気だ。
10年以上前かもしれないが、シリアスな表現の真ん中に、数コマの長さだけ、SDガンダム的な短躯でコミカルなキャラクタがはまる漫画があって、その手法にひどく違和感を感じたのだが、なにやらそれに通ずるようなものを感じる。この手の表現にずっとなにか「変な感じ」がする、と思っていたことの中身が見えてきたような感じがする。
能の演者でもあった白洲が、21の演目のストーリーを解説した本。
本人は「翻訳」と言っており、たんなる古語の現代文訳ではなく、わかり易いように彼女自身の解説を補完したりしている。非常に読み易く、かつ能の雰囲気を捉えた本の様に思われる。
とはいえ、そう言う私は、彼女の書いた「お能の見方」という本以外には、能に関して詳しいことを知らない。せいぜいがテレビでいくつか見たことがある程度。しかし彼女も言うように、知識が問題ではない、まず見ること。みて感じることが観客としては重要であって、雰囲気からわかってくればよいのだろうと思う。その意味では、この本はその手助けに十分になりそうなものである。
21の演題は、井筒、鵺、頼政、実盛、二人静、葵上、藤戸、熊野、俊覚、巴、敦盛、清経、忠度、大原御幸、舟弁慶、安宅、竹生島、阿漕、桜川、隅田川、道成寺。だいたいにおいて普通に演じられる演目の順番(脇能〜切能)に沿っているように思われる。
で、実際見てみたい、見なくてはいけないのだが、テレビ以外ではどこで見られるのだろう、と探してみると、「能 狂言ホームページ」というページを見つけた。けっこういつでもやっているのだと、再認識した。これなら仕事の帰りのついでに見るくらいはできるかな、といったところ。
ミュージアムのミュージアムをめぐって起きる、小学6年生の享と、オーギュスト・マリエットと、作者の物語。
久しぶりに「本が呼んだ」本であった。ブックボックス石嶺店に文庫が平積みであったが、まずは表紙に眼が行った。椰子の木と青い空。「瀬名」という白い文字。「ん? 沖縄?」とまず誤解する。「バガージマヌパナス」を発見したときのようなノリ。手に取って作者をみると「パラサイト・イブ」の人。ふーん。あれはビデオでみただけで、クライマックスのCG処理とストーリーが安直だった。そこにいきなりある挿絵のヘンさに惹かれる。裏表紙の梗概のようなものを1/4程よむ。ふーん、『ミュージアムのミュージアム」。。ページをめくったところに、いきなり作曲家ヴェルディの引用:「―なにか、より新しいもの―」これで読む気になった。本が私を呼んだのだ。
ストーリーは「文系を馬鹿にするな」と酷評されている「理系小説家(とは、暗に作者自身を示している)」と、彼の少年時代である「享」と、冒険家でありエジプト考古学の始祖の一人であるマリエットとが、ミュージアムのミュージアムを介して交錯する物語である。そこからさきは小説、ストーリーの中の話であるから、フレームワークをどう説明したって、しかたがない。いわゆる「ネタばれ」するよりも読んでいただくのがベストであろう。私は面白く読めた。
「面白く読めた」というのは重要な事。最近は「物語を読む力」が減った、のか、それとも「読ませる物語」が減った、のか、フィクションを読むことが非常に少なくなった。はっきりいって「読ませる物語」が減ったのではないか、と思うことがより大きいのだが。古典はいまでも面白く読める。
「読める」とは何か。結局のところストーリーの展開の理由を知りたいとか、メカニズムを知りたいという「謎解き」など、「次がどうなるか知りたい」が、物語を読ませる力だ。そういう魅力と、「ばかばかしくて読んでらんない」という、陳腐さのせめぎ合いに、魅力の方が勝てば、そのまま読み進むことができる。
魅力が大きい程に、読者は物語に共感し、その世界にあこがれ、空想し、主人公に自己同一化し、ストーリーに没入していく。その先には、著者が物語の登場人物である「小説家」に言わせている「全てを蹴散らし、圧倒的な力で(読者を)翻弄し、粉微塵に打ち砕く、物語の感動」がある。カタルシス。それを感じると、もう本読みはやめられなくなる。次はないか、次に私に感動をもたらす物語はないか。。
本書はそこまでいったか、というと、そういうわけではない。本書自体が故藤子F不二雄氏にトリビュートされている。まさに藤子不二雄のクライマックスにおける「力の抜き方」に似たものを、本書に感じるが、それは作者の立場からいえば成功なのかもしれない。最後まで読んだときに、自分がそれまでに持っていた本書へのイメージが、ひっくりかえって藤子不二雄のマンガのイメージに置き換わってしまい、たしかにそれでも納得できることを実感して、それもまた一つの感動にはなっている。
それに、ああいうミュージアムがあるといいなあ。。
そばにあるPCのスクリーンをエジプト風のものにし、神殿のシーンではグレゴリオ聖歌を、それ以外にチック・コリアの「リターン・トゥ・フォーエバー」とマイケル・ヘッジスの「オラクル」をシーンによって聞き分けながら読んだ。いい雰囲気だった。:)
2004年 1月 2日 金曜日 12:03:05 JST
book:「かくれ里」白洲正子:1969年から2年間にわたり、芸術新潮に連載された著者のエッセイを単行本化したもの。京都を拠点として畿内の「かくれ里」を著者自身が訪れて書いたもの。
彼女の著作を読んでいると、つくづく「育ちが違う」ということの意味を実感する。明治43年生まれで、祖父の代は内務大臣などを務めた家柄。本人は4歳で梅若家に能を習い、14歳で、女性として初めて能舞台を踏んだ。14歳から18歳までアメリカ留学、帰国してからは白洲次郎の妻となり、青山二郎、小林秀雄らの影響で骨董の道に入り、ものを見ることを学び、工芸の店を経営するとともに日本の文化に根ざしたエッセイストとして90歳近くまで現役だった、ということになるのか。自ら選び取った、あるいは叩き込まれた、揺るぎない日本文化が彼女の基盤にあることがわかる。
本書にかぎらず、あらゆる著作に、記紀を始めとする日本の古典の引用がつぎつぎとなされる。「この土地は誰々天皇の..」と、まるで昨日見て来たかのようにすらすらと日本古代史が書き並べられ(もちろん書く前にリサーチされているのだろうが)、文章の中に歴史がくっきりと立ち現われる。文章自体の切れもすばらしくよく、こういう日本語を書けるようになりたいと、いつも感心させられる。
「現代の生活は人を神経質にするが、敏感にはしない。過敏は一種の麻痺状態」「外来の思想や技術を支えてきたのは常にもの言わぬ日本の神々」「現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現われないし、私たちは何らかのモノ(*)を通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない」どれもきっぱりと言い切られ、鋭くあたっている言葉である。これを30年前に書かれてしまっているのだから、もう深々とこうべを垂れ、脱帽するしかない。(*:原文には「もの」に傍点)
何度読んでも美しく、感心させられる文章を読み、そこに語られている、もう存在しないかも知れないものから常に何かを得ている自分がある。
井上ひさし他、文学の蔵編:
井上ひさしが、いぜんに過ごした一関で「恩送り」として開いている作文教室の講座内容を記録した本。井上が3日間にわたり作文の講義を行い、受講者が宿題の作文を書き、井上がそれらを徹夜で採点して翌日講評とともに朗読会を行っている。作文講座の内容でもあり、イベントの記録であるとも言える。
井上の語り口がユーモラスで講座の状況を柔らかくしながら、かつ作文教室の方はしっかりとした内容で、面白い本である。バラエティショーに近いニュース番組などを評して「知的レベルがここまで低下している」と嘆き、危機を説く。その他、講座の数々の局面で彼の誠実な姿が見えて来る。受講者の宿題のできがどれも素晴しい。作文の本であると共に、井上の物書きとしての強い意思を知る本であり、受講生の書いた作文の内容から学ぶ本であり、このような企画を続ける「文学の蔵」の活動の姿から学ぶ本でもある。読むべき本の一つ。
宮崎駿氏のインタビュー本「風の帰る場所 - ナウシカから千尋までの軌跡」を読んだ。「ロッキンオン」の渋谷陽一が1990年から2001年の12年間にかけて宮崎駿に対して行った5回のインタビューの全記録である。本書の最初の二つのインタビューは「黒澤明・宮崎駿・北野武 - 日本の三人の演出家」にも収録されている。
その宮崎氏がお薦めのもの二つ:
movie:「ダーク・ブルー」
宮崎駿さんとスタジオジブリが薦めていたので観る気になった。いわゆる「戦争映画」である。
第二次大戦で自由のために国を逃れ、英国空軍に参加しドイツと戦ったチェコスロバキアの兵士達は、共産化した祖国に帰るとなんと強制収容所に送られてしまった。収容所で主人公のフランタという兵士が回想するかたちで物語が始まる。それはフランタと親友の兵士の愛と友情の物語だった。
この映画は、監督の父が、彼の父親世代になる実際の兵士たちへのインタビューから脚本を書き、それを息子の監督が映画化したものだそうだ。映画化されたのは2001年。戦争映画であるから当然空戦シーンがあるのだが、そのリアリティが抜群である。これに匹敵するのは「空軍大戦略」しか思い浮かばない。というよりも時を経て技術が進歩し、こちらの作品の方が「空軍大戦略」よりも上を行っていると思う。とにかく空撮が美しい。宮崎が「紅の豚」で描いたようなシーンが実写ですらすらと出てくる。
驚くべき(あるいは当然の)ことに、それらの特撮の殆んどは「実物」を使って行われている。特撮を最大限にリアルにするには実物を使え、ということだ。CGは煙の表現や、なんと「回想部分の記録映画」シーンの、その「記録映画」を作るために使われている。
飛行機もの好きの宮崎が、そういう単純な視点で薦めた映像作品という意味でも抜群のできである。押井守の「アヴァロン」を評し「ハインド一機飛ばして何喜んでるんだ」と言う宮崎の気分がわかる気がする。
主人公が体験したほとんどパラドキシカルな強制収容所の運命、という視点にも、宮崎がなんらかの意味を見出していたのか、そこはわからない。実際のところ、空撮の素晴しい映画という点では、強制収容所の現在から昔を振り返るという枠組は必要ないのだ。
がしかし、過酷な収容所を背景として描写し、その事自体にはなんら言及しない、という監督の態度は、そのような状況を以てしても主人公らの戦時の友情の気高さは曇らないのだ、という衿持を表現しているのかもしれない。
少なくとも空戦ものとしても、観ておくべき映画の一つ。
book:「わら一本の革命」福岡正信著
これも同じ本で彼が言及していたので読む気になった本である。著者は「自然農法」を推進して来たもと農業試験場の技士さんだそうである。
単純に言うと「なにもしない農業」を提唱し、実践している。春と秋に、鍬き返さない、まだ麦と稲が(それぞれ春秋に)生えている土に、籾団子や麦の種を捲き、その後に刈り取った麦や稲の藁をそのまま撒く。藁の下で保護された米籾や麦が発芽し育ち、収穫を迎える、という農法。雑草は撒いた藁でコントロールされ、撒いた藁と土中微生物で養分が生まれ、肥料は必要なく、田の鍬き返しも農薬も必要ない、ということだ。ようするに「何もしないでいるといちばんよい結果を生む」ということだ。彼はそのために「科学的知識」に強い反発をもつ。それは必要のないところに何かを行い、その結果必要性が生まれてその科学が必要になる、というようなことだ、と語る。分別知としての科学は必要なく、無分別の状態がよい、ということだ。
同様の思想で「食」についても語っている。
作者のいう根本的な無分別・無為の思想は非常に魅力あるものだが、長いこと科学の世界に身を置いて来た自分には、体内にある「科学的視点」という邪魔者を排除できない。その意味では根本的にこれを受け入れ兼ねているところがある。がしかし、思想としてこれに耳を傾け続けることは重要なことではないかと直観している。
季節感・旬のものの大切さに関しての記述もうまそうでうれしい。「そういえばそんな食もあったな」という気がする。