映画館到着。1400円。入って、しばし佇んで本を読み続ける。そのうちに若者達がどやどやとドアのところに集まる。(「集まる」んであって「並ぶ」わけではないところが今風か。)待合いのソファが空いたのでそこに座ってまた本を読み続ける。
開場。中に入る。満席率97%くらい。ブザーが鳴り暗くなり、しばらくファミコンの宣伝があった後で、本編が始まった。
非常に力のある作品であった、とだけここでは言っておこう。
「テレビの続き」という意味なのか、第25話と26話に別れた構成となっている。間にDNAの二重らせんみたいなパターンでテロップが流れるのだが、そんな演出必要あるのかな、とも思った。
何にせよ力のある映像だった。テロップが出る時、気がついたら手が痛いくらい本を握り締めていた。
本編が終わり、外に出てきた私は、たぶん呆けた顔をしていたはずだ。思考回路が回らなかった。激しい明るさの外へ出てきた。何も考えられず、どっちの道が正しいかわからなかった。
うろうろしたあげく、平和通りへ下り始めたのだが、なぜか足が止まり、路地からふらふらと公園へ入っていった。
圧倒的な現実がそこにはあった。
地の赤土と緑の下生え。そびえる樹木たち。木々の葉の間から覗く
真っ青な空。レイの体を覆い尽くした使徒の様な、脈うつ気根のがじゅまるの幹の姿。手のひらに当たる木漏れ日。木の葉から顔にかかる水滴。
木の下の縁石に腰掛けた。
なんなんだろう。この現実の力は。ものすごいパワー。生命の力。なんでそれを今感じるんだろう。
エヴァの映像の非現実感が現実をきわだたせたのだろうか。
思いつくことをなんとか言葉にしようとメモを取り出した。メモは、木の葉の間を落ちてきた、天の啓示のごときスポットライトの中にあった。
しかし書けたのは「圧倒的な現実」だけ。今はその現実を感じているしかなかった。
10分くらいはぼおっとしてそこに座っていたんじゃないだろうか。そういえばいつだったか一人で竜安寺の石庭の板縁に座っていたときのことを、今思い出した。あのときも妙に現実が歯切れよく感じられた。
しばらく座ってから、帰ることにした。
路地を出たところで腹が減っているのに気がついた。いい匂いもする。カレーだ。目の前の「食堂インド」。入る。1Fでチキンカリーを頼む。750円。サラダが出て、程なくライスとチキンカリーが別皿で出てきた。すぐ後にナンが1枚。うまかった。久しぶりのクミンシードの香り。
終わってから、把手のないお椀で紅茶が出てきた。レモンティー。ミルクティーが良かったなあ。レモンなしで飲んだ。
それで、カリーを待っている間にいろいろと考えた。
エヴァは終わったが、「物語を終わらせる」のとは別の次元で終わった。「補完計画による融合と分離」というシナリオはあったが、物語は終われたとはいえない。明瞭には片をつけられなかった。監督が自分に片をつけるための終わり方だと思う。
あるいは彼の25、6話を尊重しても良かったのかも、とも思う。
「スキゾ・エヴァンゲリオン」で、監督が「ストーリーを実写でひっくり返したらどうなるか」という話をしていたが、向き合う映画館の席のシーンは、そういう意図を感じた。知っているからわかることなんだけど、プレトリートメントなしには、それはどう見えたのだろうか。残念ながら自分にはそれがわからないので、何か感じた人がいたら、意見を聞きたいです。
それ以外にも、近辺の言葉の端々に、そのような意図を感じました。
だがその言葉は理解が難しかった。背景知識がないと理解できない言葉。Noisyなほど情報量が多い。単に「情報が多い」ことの表現? が、それを整理してみせるのも力量。監督の表現足らずなのか、アニメだからといって言葉を受け入れない自分のせいなのか、内なる欺瞞に目が向く。
しかしそれでも、もっとsimpleでわかりやすい終わり方はないのか、それを求めてはならないのか、と思ってしまう。紋切りな表現に陥りやすいが、説得力はあるはず。
それともそもそも「説得すべきものはなにもない」のか。単に自らの心象の表現? 彫像のような「心のオブジェ」?
「死」以外にリアルなもののない、描写のない人物たち。監督のさまざまな心象の側面の象徴であるはずだが、象徴的でありながら象徴されていない。
登場人物にパワフルなリアリティがない。リアリティなくして何を語るのか。語れるのか。そこが今の監督の限界か?
が、それでもこの作品は力がある。量産されるジャンクアニメとは全く異なったレベルにある。このPowerを持って、監督はどこへ行くのか。非常に期待される。
1430頃に帰宅。そのままOIAの勉強会に向かう。会場で草稿をまとめた。
「まとめた」というが、これ以上はまとめきれない。私がまとめきれないのか、作者がまとめきれないのか...